作者のイーユン・リーは、1972年に北京で生まれ、20代でアメリカに渡り、英語で小説を書き始めた。初の長編『さすらう者たち』は、文化大革命後の中国地方都市を舞台にした群像劇で、実際の事件がモデルとなっている。
本書にもモデルがある。16歳の長男を自殺によって失うという、作者自身の凄絶な実体験である。長男の死からわずか数週間後に書き始めたのだという。
ニコライという名を与えられた息子と「私」(母親)が、時空を越えて交わす二人の会話だけで構成された小説である。といっても息子は亡くなっているので、すべては作者の胸の内で繰り広げられた、想像上の会話なのである。
もしも自分がこのようなことに見舞われたら、なぜ、そんなことをしたのか、どうしたら止められたのか、後悔と自責の念にかられ、ひどく感傷的になってしまうだろう。しかしこの本では、息子の自殺の理由を直接に問うことはない。幼い頃からの共通体験を反芻し、現在の考えを淡々と言葉だけで交わしあう。その内容は、意表を突く。
例えば、「いつからまぬけな類推(アナロジー)や的外れな隠喩(メタファー)をやたらと消費するようになったの」とニコライが皮肉めいたことを言うと「そっちは形容詞を使いたい放題じゃない」と「私」が反論する。普通の親子の会話ではないな、と思う。ここには、両者共通の言葉を使うことに対する高い意識と独自の批評性がある。作者は、亡くなった息子の魂を繋ぐ唯一の道具として言葉を模索する。
「言葉だよ、お母さん。ぼくたちはお互いの言葉をつかまえるんだ」
「決めつけるものには何だって抵抗するよ。形容詞は独断的な言葉でしょう」
「そうだよ。どっちみち人生のすべては色あせるか、消えてしまうんだ」
「その自己ってやつが、ぼくは大嫌いなんだ」
二人のセリフは、ときおり箴言のように心を立ち止まらせる。自意識と諦念を示す言葉の背後から、理屈っぽくて聡明で茶目っ気のあるニコライのキャラクターが立ち上がってくる。
ニコライの夢の中で「私」が言ったという「タンポポをタンポポ化しないでよ」というセリフがある。夢らしく唐突でおかしいのだが、「◯◯化」という語には、存在をステレオタイプに押し込めようとする意識への抵抗が感じ取れる。
ニコライは、ブルーベリーが好きだった。「最後に残った冷凍ブルーベリーの袋を言い表すことはできない。私たちはもう袋に触れることができなくなった。冷凍されたものが化石になるまでには、どのぐらいかかるのだろう」と「私」は思う。
冷凍ブルーベリーは、止まってしまった時間を可視化する象徴的な物体である。それを「言い表すことはできない」と確認することは、言葉の限界を思い知る無念さの表明であり、又、安らぎでもあっただろう。
Yiyun Li/1972年、北京生まれ。北京大学卒業後、米アイオワ大学大学院で免疫学を研究、のち同大学院の創作科に編入。2005年刊行の『千年の祈り』でフランク・オコナー国際短編賞などを受賞。
ひがしなおこ/1963年、広島県生まれ。歌人・小説家。著書に『晴れ女の耳』『青卵』『愛のうた』など。