新宿歌舞伎町の通称“ヤクザマンション”に事務所を構え、長年ヤクザと向き合ってきたからこそ書ける「暴力団の実像」とは――。暴力団のシノギの一つである「博奕」について、著作「潜入ルポ ヤクザの修羅場」(文春新書)から一部を抜粋する。
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盆中に潜り込む
大阪府某所……。
住宅街にある倉庫のような建物は静まり返っており、倒産した工場のようにも見えた。防寒着を着込みニット帽を被った中年男が2人、入口の脇のパイプ椅子に座っていた。午後8時過ぎ、隣接する繁華街は賑やかでも、わずか5分ほど歩いたここには、ほとんど通行人がいない。振り返るとシキ張り――見張り役の組員が道路の辻ごとに立っていて、周囲に目を光らせていた。気づかなかったことを反省した。浮かれすぎては取材にならない。
深呼吸して、「○○親分から紹介された者ですが……」と伝えた。
シキ張りの組員は寒さでこわばった顔のままドアをノックし、中から鋼鉄製のドアが開けられた。
「今日は冷えますね」
話しかけてもニコリともしない。
中に入ると殺風景な通路が5メートルほど続き、また頑丈なドアがあった。それを開けるとようやく玄関で、四畳半ほどの広さがあり、大きめの靴箱にぎっしり靴が並んでいた。スニーカーを脱いで下足番の若い組員に渡す。サンダル、パンプス、革靴、運動靴……靴箱の中身には統一感がなかった。
玄関にもパイプ椅子と灰皿が置かれ、3人の下足番が待機していた。客の履き物を管理するのは、見た目以上に大事な役割とされる。靴の渡し間違いで殺人事件になったこともあるし、万が一の際はここが警察との最終防衛線となるからだ。自分たちが逮捕され懲役となっても、体を張って客たちを逃がさねばならない。
博奕の現場は完全な閉鎖空間
若い衆の後ろについて板張りの廊下を歩く。やはり世間話をする雰囲気ではなかった。廊下の窓は表から板を打ち付けられ、完全に遮蔽されていた。途中で折れ曲がり、分岐し、20メートルほどあっただろう。編集者時代から交流を重ね、カメラ持参で潜入するまでほぼ4年。長く折れ曲がった廊下以上に、この取材に至る道のりは長かった。原稿料の大半を先行投資し、大阪に拠点を持った甲斐はあった。短期的には赤字でも、暴力団取材をする身にとっては大きな収穫だ。暴力団社会の変化は早い。シノギでも抗争でも、いま取材しなければ、なくなってしまうかもしれない。