「シナリオ」は柔軟に変化させよ
私は経営者として、常にシナリオを用意して、様々な手を打つことを意識しています。私がいつも描いているシナリオは、自分以外に誰にもできないような、もっといえば、やろうとすら思わない、私自身の社会に対する挑戦の意志にもとづくものです。
ある程度のざっくりとしたタイムスケジュールはひいていますが、私は世の中や自身をとりまく状況や環境の変化で柔軟にシナリオを変化させます。いつも意識の根底にあるのは、先を見越したうえで、今やるべきこと、打ちだすべきメッセージを見定めることです。物事の背景にシナリオの存在が感じられるとき、そこに一連のストーリーが生まれ、人は次の展開が楽しみになります。今やっていることの意味が深くなります。
人々の共通の話題にも発展していきますし、次の展開を受けて「やっぱりそう来たか」と感じてうれしくなるのも、「まさかそう来るとは」と驚くのも、見えないシナリオの伝播と第三者同士の勝手な共有がもたらしてくれる楽しさです。
言うまでもありませんが、シナリオはいわゆる“やらせ”ではありません。
あくまでその時点における仮の筋立てであって、先述したとおり常に状況に応じて描き直されていくものです。ただ、仕掛ける側としては、その“仮の筋立てとしてのシナリオ”を持っているか持っていないかで、世の中にその波を伝える力に大きな違いが出てくるのです。
「優勝を目指す」は心躍る目標ではない
今のスポーツ界に、そうしたシナリオに基づいて繰り出されている話題がどれほどあるでしょうか。スポーツ界が発信する情報の中に、人々の心を躍らせるものがきちんと、また数多くあるのでしょうか。私は正直、物足りなくて仕方がありません。
たとえば、これまで、人々が共有してきた目標なり「シナリオ」は、以下のようなものでしょう。来年に“予定”されている東京オリンピックの出場選手が金メダルを目指し、プロスポーツチームがリーグ優勝を目指す。あるいは下部リーグのチームが「来シーズンの昇格を目指します!」「いつか1部で優勝するのが目標です!」と宣言する。
いずれも、競技に全力で挑んでいる選手たちやチームにとって、それらを目指して戦うことは当然のミッションです。ただ、見ている側の気持ちとしては――少なくとも、コロナ禍ですべての人類に先がみえない最中の“いまを生きる私”には――それを聞いても心が躍る目標ではありません。
なぜなら、それはある意味「当たり前のこと」であり、ずっと前から耳にしてきたことの繰り返しでもあるからです。価値観の大変革期の狭間にいる今、「優勝を目指すなら全力で応援してあげたい!」という共感や昂ぶりは、湧いてこないのだ、と私は“いま”の社会の空気を読んでいます。