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「天下の菊池寛の原稿を『持ち込み原稿』と言い切ってしまった」

 彼女から話を聞いて小説を書いた広津和郎は問題をどう捉えたのか。戦後の著作「小説 同時代の作家たち」に詳しい記述がある。

 広津は冒頭「菊池君とは互に文壇に出た時代が同じだったので、最初の頃は相当近しくつきあった事もあったが、後にはいつか遠くなり、晩年には殆(ほと)んどつきあわなかった」と書く。若いころ、一時期は住居も近く、同じ作家の久米正雄も含めて頻繁な交流があった。しかし、広津が転居したのに加えて、菊池が成功し、文藝春秋を立ち上げたあとから、広津の彼に対する感情が微妙に変わっていったという。「自分の心持が菊池君から離れて行くのを感じた。それは賑やかに大勢集まるような雰囲気に気質的に私が合わないということにも理由はある」。そこに「女給」の問題が起きた。広津はここでも「この小説の全編を読んだ人は、私が菊池君に根本的には些(いささか)の悪意をも持っていない事を読みとるであろうと思う」と言う。「併(しか)し菊池君に取ってちょっと痛い事は、菊池君がこの小説に現れた限りに於(お)いては、女に持てていない事である」

広津和郎 ©文藝春秋

 菊池と婦人公論側の対立については「天下の菊池寛の原稿を『持ち込み原稿』と言い切ってしまったのである」と感想を述べ、「これは益々弱った事になってしまったものであると私は思った」と書いている。何日か後、広津は神宮外苑でばったり菊池に会う。「これはまずい処(ところ)でぶっつかったという気がしながら側まで近づいて行くと、菊池君はにやりと笑った。そして、『君、君は何故調停に出て来てくれないんだい』といきなり早口で言った。『君は僕に怒っているんじゃないのか』『君には怒りゃしないよ。君は友達じゃないか。僕の怒っているのは中央公論社だよ』」。それで広津は調停のため中央公論社を訪れたが、嶋中社長は強硬だった。その話によると、「菊池君は彼に面会を求め、彼が会うと、改題及び持ち込み原稿という事について怒り出し、責任者は誰かというのでF(福山)君を呼んだ。そうしているうちに、菊池君は興奮して自分の方へにじり寄ろうとしたが、間に大きなテーブルがあったので、それを廻るのを面倒と思ったのか、いきなり横に立っていたF君の頭をぽかぽかと幾つか殴り、そのまま編輯室から出て行ってしまったのである」という。「『そうだよ。僕は島中社長を殴ろうと思ったんだよ。併しテーブルがあって近づけないものだから、編輯者を殴ってしまったんだよ』と菊池君は言っていた」

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©iStock.com

 嶋中の次男で父の後を継いで中央公論社社長になった嶋中鵬二氏は文藝春秋1957年11月号の「中公・文春合戦譚」という文章で「この事件の経過ではっきりわかるのは、菊池さんの明けッぱなしで淡泊な人柄のよさであり、私の親父のふしぎな執拗さである」と述べている。その理由として、父が菊池に言ったこんな言葉を伝えている。「これは執筆家と雑誌編集者の問題なんですよ。編集者というものが、執筆者に対して、長い間どんなに屈辱的な立場にあったかという事で、みんないきり立っているんですよ。その点は僕も同感なんです」。さらに鵬二氏も加わった文藝春秋1988年1月号の「中央公論社に殴り込んだ菊池寛」の座談会で、ジャーナリストの徳岡孝夫氏は、菊池の婦人公論殴り込み事件を「ビートたけし事件のはしりですね。しかし、たけしとちがって一人で乗りこんだところが偉い」と述べている。

華々しい地位にあった菊池寛への微妙な感情

 広津は編集者らを説得にかかったが、強く反論された。広津は「諸君はこんなに大勢いながら、(1人が殴られるのを)何故指を銜(くわ)えて見ていたのです」と非難。調停を受け入れさせた。しかし、嶋中社長に、菊池が書いたのと同様、遺憾の意を表した「わび状」を求めると、難色を示した。広津が最後の奥の手として「僕は手を引きます。どうかやってください。併し僕は小説(『女給』)は(執筆を)中止します」と宣言すると、ようやくケリがついたという。しめくくりに広津はこんなことを書いている。「(若い時の)本郷時代以来菊池君に対して一方では感心しながら、一方では一つの反撥(発)を感じていたようである」「菊池君が文壇の大御所然としている時、『女給』を書いて見たくなったのも、やっぱりそれの現れであったかも知れないように思う」「菊池君の物を割切ったあの勝利感にはつい顔をそむけたいような反撥を感じ続けたのである。それは菊池君の余りに明瞭な現実主義に対する私の抽象主義の反撥だったかもしれない」