小説などのモデルをめぐるトラブルはいまも時折起き、裁判沙汰にもなっている。しかし、ちょうど90年前、小説の登場人物のモデルとなった「文壇の大御所」が、小説を掲載した雑誌の編集部に“殴り込み”、編集者に暴力を振るった。同様の事件はほかに1986年12月、ビートたけし氏が「たけし軍団」とともに講談社の写真雑誌「フライデー」編集部に押し掛け、編集部員らにけがを負わせた例があるくらいで、当時の世間に衝撃を与えた。事件には、当時の女性の花形職業だった「女給」の存在が絡んでいた。何が彼をそこまでの行動に駆り立てたのか。時代背景も合わせて振り返ってみる。
菊池寛が、中央公論社で編集者を殴る
「モデル問題から憤激し 菊池寛氏の暴行 婦人公論編輯(集)主任を撲(なぐ)り付け 紛争の形勢悪化す」。この見出しの記事が東京朝日(東朝)に載ったのは1930年8月18日付朝刊。社会面3段の扱いだった。「婦人公論掲載、広津和郎氏作長編小説『女給』のモデル問題から、文壇一方の旗頭菊池寛氏と中央公論社の間に紛議を醸し、菊池氏は15日午後1時半ごろ、中央公論社に至り、編集室において婦人公論編集主任福山秀賢氏(35)の頭部を拳固(げんこ)で殴りつけるに至り、事件は遂に悪化し、告訴沙汰にまで至るものとみられるに至った」。
記事にはそれまでの経過が書かれている。「広津氏の『女給』が婦人公論に発表されるに当たり、同社においては、菊池氏をモデルにしたる点の宣伝に力を注いだため、さる7月17日、菊池氏より島中社長宛て『僕の見た彼女』と題する抗議文を同誌9月号に寄せたるに対し、右全文掲載するに際し『僕と小夜子の関係』と改題し、新聞、雑誌に広告したため、菊池氏は甚だしく激高し、文士に対する礼を知らざるものと怒鳴り、当の責任者福山氏を続けざまに殴りつけたので、居合わせた社員たちは驚き、かつ憤慨して大事を引き起こそうとしたが、島中社長の鎮撫により、同日は収まった」「福山氏は菊池氏を相手取り告訴すべく準備中であるが、島中社長は福山氏をなだめ、16日、菊池氏宛て書面をもって氏の不穏なる行動をなじり、釈明を求め、氏の回答を待ちつつあるが、菊池氏の出ようによっては相当に紛擾するものとみられている」。
ここに出てくる「島中社長」は嶋中雄作(新聞によっては「島中」と表記)。奈良県出身で早稲田大卒業後、中央公論社に入社。1916年の婦人公論創刊に当たって主幹に。1928年から社長を務めていた。自由主義者で知られ、軍部の弾圧で一時同社は廃業するが、戦後再建。再び社長を務めた(「別冊1億人の昭和史 昭和史事典」)。出版界の大物だった。
銀座のカフェで働く「女給」をモチーフにした小説が発端だった
問題の小説は広津和郎の「女給」。広津は東京出身。明治・大正に活躍した硯友社系の作家・広津柳浪の次男で、早稲田大を卒業後、「神経病時代」「死児を抱いて」などで注目された。「小説を人生と結び付け、他の芸術一般と区別する立場」(「昭和史事典」)で、自ずから時事的な題材を取り上げることが多かった。
筆者にとっては戦後の松川事件への強い関心と被告支援の印象が強いが、年譜などを見ると、交友関係は広く、女性遍歴も華やかで、文士らしい文士だったようだ。「女給」も当時の社会の一面を取り上げている。