北海道から上京した「小夜子」という「シングルマザー」の女性が、子どもを抱えて生活に苦労した揚げ句、銀座のカフェの女給となって生きて行く物語。カフェの客や同僚とのやりとりが詳しく描かれ、ほれ込んだ客の1人は妻子と別れて彼女を追い続け、断られて自殺未遂を起こす。菊池がモデルとされたのは、同様にほれ込んだ客の「吉水薫」という有名詩人。吉水は小夜子をひいきにして毎回多額のチップをはずんで関係を迫る。小夜子は応じず、結局、吉水は小夜子のライバルの女給に心を移す。「背が低くて、横肥りに肥っていて、小股にちょこちょこ歩いて、歩くたんびに身体を左右にひょいひょい揺る形――また、あまり好い恰好ではありませんわね」と小説中では描写されている。初対面の時の別れ際の描写が現実をほうふつとさせる。
吉水さんは帰り際に、
「さあ、君、握手しよう」
あたし、何気なく手を出すと、吉水さんの指の短い、丸まっちい手が、あたしの手をぎゅっと握りしめましたの。そして握った拍子に、紙の丸めたようなものが、無造作にあたしの掌に押し込まれましたの。あっと思って、あたしは無意識に軽く頭を下げましたわ。
だって、それが十円札を小さく丸めたものだったんですもの。十円札! あたしどんなに嬉しかったでしょう。
1930年当時の10円は2017年の貨幣価値に換算すると約1万9000円。小説中で小夜子は「この不景気に、十円なんてチップを呉れる人が、そうざらにあるかって?」と語っている。吉水はその後毎日訪れて、その度に小夜子に5円札(同約9600円)を渡し、大森海岸の料理屋で関係を断られた時は40円(同約7万7000円)を握らせた。有名文士の豪遊ぶりがうかがえる。
「太って実業家のような文壇の大御所……」読者をあおる宣伝文句
菊池寛は香川県出身。旧制一高(現東大教養学部)から京都帝大(現京都大)に進み、「はじめ劇作家を志し、第3次『新思潮』時代に『父帰る』などを発表したが認められず、小説に専心。『忠直卿行状記』『恩讐の彼方に』など、清新な作風の名作を次々に発表」「文壇の大御所といわれたのは1923年、『文藝春秋』を創刊。芥川、直木賞の設定などで文壇に貢献し、さらに大映社長など、社会、文化全般で活躍したことによる」(「昭和史事典」)。戦後、公職追放となり、1948年に死去したが、いまも「菊池寛賞」に名前を残すほか、最近でも小説「真珠夫人」がテレビドラマ化されて話題を呼んだ。
「女給」の第1回は1930年7月16日発売の婦人公論8月号に掲載された。発行元の中央公論社は発売前、新聞に大々的な広告を打っている。「吉水薫、子どもも知る文壇の大御所。小夜子の言葉を借りれば、太ってがっしりした実業家のような格好の人」「吉水薫が誰であるかは、この物語を一読してただちに分かるという。その吉水の赤裸なこの姿!」。7月16日付東朝朝刊1面にも「婦人公論八月号」の広告が載っているが、ここでも「太って実業家のような文壇の大御所に拉(ら)っし去られた小夜子が嬌笑の悲歌は全日本を涙させる!」とある。こう見ただけでも、「モデルが誰か」で読者の興味をあおる、やややりすぎの宣伝に思える。このあたりにもトラブルの火種はあったのだろう。
東朝8月18日付朝刊記事によれば、雑誌発売翌日の7月17日、菊池は嶋中社長に宛てて次のような抗議文を送った。「あの小説では誰が見ても、吉水が自分と分かるようになっている。ことに新聞に出した広告によると『文壇の大御所』となって宣伝されているが、あの肩書は自分に慣用されているものである。小説では吉水が娘を誘惑することになっているが、実際はむしろ自分が美人局(つつもたせ)にかかったような次第であるから、この際、自分から進んでモデル問題を解決したい」。
抗議文には「僕の見た彼女」という原稿が添えてあり、婦人公論に掲載することを求めていた。菊池はその後、この「事件」について一切書き残していないようだ。伝記や年表にも記述はない。ここで言い分を要約して確認しておこう。