「もっと小説家的眼光で吉水薫の立場をよく擁護してくれたら……」
「あの小夜子というのは、タイガーにいたとし子という女であろう。本名は須磨子というのである。広津君が一月くらい前、僕に『君はとし子という女を知っているか。面白い女だ。いまあるバーにいるが、店を閉まってから来いというから遊びに行くと、雑炊などをこさえて食べさせてくれる』と言っていたから、たぶんその女のことだろう。その女なら、なるほど僕は知っている。しかし、その女と僕との交渉は、その女が広津君に雑炊をごちそうしながら夜通し話したであろうこととは少しは違っているのである」「その女はタイガーにわずかしかいなかった。僕が行くと、文学少女とみえ、勇敢に僕に嬌態を示したように思われた。10円やったかどうか、それは忘れたが、そのくらいの金はちょっと気に入ると誰にでもやるから、おそらくやっただろう」。その後、別の店に移った彼女から呼び出された。
「由来、女性に対しては親切な僕であるから、出掛けて行ったのである。ところが彼女はかなり尾羽打ち枯らしていて、銀座のよい店へ出たいが、着物を買う金がないから貸してくれというのである。そこで親切な自分は貸してやったのである(こういう親切気さえ自分になければ、くだらないモデルなどにされなくてすむのであるが)。それによって彼女は『黒猫』に出たのである」
「なるほど、彼女と一緒に一度、ご飯を食べに行ったことは事実である。しかし、それも僕が誘ったか、反対に彼女が誘ったか、そういうことは神様でなければ公平な証言はできないものである。僕に金の無心をしたというような都合の悪いことは絶対に言わない彼女であるから、自分だけいい子になっていられても、僕の方は仕方がないのである」「ところが、僕と一緒にご飯を食べに行ってから2、3日もしないのに、僕は彼女と同棲していたO(オー)という男から突然脅迫されたのである」「僕は怖気をふるったものである。これは美人局ではないかと思ったのである」「自分は彼女に対し、少しもやましいところはなかったから、そういう脅迫ははねつけたが、こりごりして引き下がってしまったのである。だから彼女との交渉は10日ばかりだった」「あの小説を見ると、僕が熱心で彼女は淡々としているようであるが、それは逆ではなかったかと僕には思われるのである」「彼女にそんな無心を聞いてやったり、脅迫されるような嫌な目に遭わされたうえ、なおそのうえモデルにされてくだらない役回りなどさせられてはたまらないのである」。そして著者に対して「広津君がもっと小説家的眼光で吉水薫の立場をよく擁護してくれたら、僕はこんな恥を言わずにすんだのである」と愚痴を漏らしている。
作家と編集者の長年にわたる微妙な関係が表面化した
婦人公論側では菊池寛の抗議文を9月号に掲載すると決めたが、見出しを「僕と『小夜子』の関係」に変更。8月12日付夕刊掲載の婦人公論9月号の広告で「菊池氏から抗議を寄せられた。ゆがめられた氏はたして何を言わんとする?」という説明をつけ、抗議も宣伝材料にしてさらに関心をあおった。それが9月号発売前日である8月15日の殴り込みにつながったとみられる。8月18日付東朝朝刊には「あくまで戦ふ(う) なぐられた福山氏は語る」の見出しの別項が。「菊池氏には怒る理由はあるかもしれないが、一雇人である個人を殴る理由はない。文芸界の大家の横暴に対して、力の弱い雑誌編集者の立場から、あの暴力事件はあくまで戦うつもりである」
そして8月25日、福山編集主任は菊池を相手どって「東京区裁判所検事局へ暴行傷害の告訴を提起した」=8月26日付東京日日(東日)夕刊。同じ日付の東朝には原告側の言い分として「(菊池氏は)右手で拳固をつくり、福山氏の顔面を殴打し、左耳及びこめかの腫(は)れあがるほどの乱暴を働いたが、その後一度の陳謝もせぬ」とある。これに対し、8月26日付東朝朝刊には「訴へ(え)られた菊池氏も 直(ただち)に相手方を訴ふ」の記事が。「今度は中央公論社の島中雄作、当の殴打した相手たる婦人公論編集者福山秀賢の両氏を相手取り、著作権侵害、名誉棄損で告訴することになった」。菊池は「自分が福山氏に対して過激の行動に出たのは、自分が同誌に寄稿した文章の題を勝手に改題したためで、作家の書いたものを勝手に変改するごとき侮辱がほかにあろうか」との文書を発表した(同紙)。同じ日付の東日は社会面トップで「文壇泥仕合」の見出し。そこには著者広津の「困った困った。元々僕の小説から起こった問題で、菊池氏も気の毒だし、福山君も気の毒だし、双方の円満な解決を望んで、目下福山君にもいろいろ話しているところです」という談話が載っている。
興味深いのは嶋中社長の談話。東日には「そもそも菊池氏の抗議文は持ち込み原稿だから、慣例によって改竄(ざん)するのは不当でないと思う」として載っている。ところが、同じ8月26日付朝刊で「モデル問題更に紛糾」の見出しで報じた時事新報には「編輯者の立場」として次のような談話が。「争うなら大いにやらした方がいいでしょう。あの問題は2つの別個の問題になっていて、殴打事件は原因のいかんに関わらず成立すると思うが、改題は文芸家対編集者の間に一朝一夕には決せられぬ問題でしょう。編集者としては、ある場合、改題もやむを得ぬとの意見も立て得ると思うが、菊池との情誼(じょうぎ)から、僕は一応断って改題した方がよいと考え、無断ですることに遺憾を感じていました」。部下の編集者たちの怒りを抑えきれなかったととれる。「不当にしいたげられてきた若い別個の立場を持つ編集者の側からは、改題のため、不当の暴行までも甘んぜねばならぬことはない」とも。文藝春秋をバックにした菊池と中央公論の対立として新聞は注目したが、問題はそれだけでなく、作家と編集者の長年にわたる微妙な関係が表面化した形になった。