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連載昭和事件史

“モテないこと”を暴露されて激怒!? 菊池寛の出版社殴り込み事件の背景にあった「エロ・グロ・ナンセンス」時代

90年前の「出版社殴り込み事件」 #2

2020/07/19

 1930年、小説家・菊池寛が自身がモデルになった小説「女給」を巡って、中央公論社に殴り込んだ。なぜ、菊池寛はなぜそれほど怒ったのだろうかーー。“舞台”となった当時のカフェと女給、そして作家と出版界を振り返る。

ビートたけし“フライデー襲撃事件”の56年前 作家・菊池寛が「出版社に殴り込みに行った」事件とは>から続く

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「昭和初年の風俗と女性について語るとき、なにをおいても物語らなければならないのは“カフエー”と“女給”たちである。カフエーという呼び名は、戦後に至って雲散霧消してしまう」と戸川猪左武「素顔の昭和 戦前」は書いている。様々な呼び名があるが、ここでは当時の雰囲気を表すため、固有名詞や文中以外は「カフエー」で統一する。

 現在も「カフェ」と呼ばれる飲食店はあるが、当時のカフエーはだいぶ違う。1929年に出版された最も詳しいカフエー専門書とみられる村島帰之「カフエー」はこう書いている。「日本に初めてカフエーができたのは、明治44(1911)年、東京市京橋区(現東京都中央区)日吉町に、東京美術学校(現東京芸大)出身の洋画家・松山省三氏が『プランタン』を開業したのに始まる。そこは主として文士や画家や俳優の集合所であった」。「そこではコーヒーが飲まれ、ウイスキーがあおられ、洋食が並べられた。松崎天民氏の記すところでは、市川猿之助(歌舞伎俳優)、岡田三郎助(洋画家)、生田葵山(作家)、井上正夫(新劇俳優)、正宗白鳥(作家)、正岡芸陽(評論家)、押川春浪(SFなどの作家)、阿武天風(作家、編集者)、平塚断水(作家)、長原止水(洋画家、挿絵画家)、森田恒友(洋画家)、滝田樗陰(中央公論編集長)などの故人や知人を数多く見た」

カフエ「サロン春」の内部(酒井真人「カフエー通」より)

 その後、大衆化するに至って、コーヒーを飲ませる店と、バーやレストランのように酒と料理を出す店に分かれていく。酒と料理の店には女給(女給仕人の略称)がいることが原則になっていた。いまでいえば、クラブのホステスに近い存在だろうか。銀座でも「ライオン」「タイガー」「クロネコ」などの大型店が隆盛を極める。「カフエー気分に必要なものは、蠱惑(こわく)的な女給の嬌声と、エロチックなその媚態と、刺激的なその服装……。それらから発散するところの魅力に富んだ空気、それである」(「カフエー」)。

流行語になった「エロ・グロ・ナンセンス」

「昭和2年現在の内務省の調べでは、日本全国の市及び3万以上の町にある女給の数は、東京市の1万8000人を筆頭に約4万人を算した。当時の大阪の女給数は6000人と計上されていたが、警察の調べでは、昭和4年9月現在ではそれが1万2000人以上に上っているというから、その率でいけば、全国の女給の数は現在では8万以上に上っていよう」(「カフエー」)。

「東西カフエのスター」たち(「カフエー」より)

 時代は、関東大震災と第1次世界大戦後の慢性的な不況に、昭和に入って恐慌のあおりが加わり、不景気が一段と深刻化。凶作もあいまって農村が疲弊し、娘の身売りが社会現象になった。一方、東京では私鉄の路線が延びて住宅地が広がり、新しい都市文化が生まれた。職業を持つ女性と、アメリカ文化のジャズ、ダンスが進出。浅草のレビューなどでは、体を露出させた女性があふれ、長く閉塞状況にあった大衆を取り込んだ。「エロ・グロ・ナンセンス」が流行語に。カフエーもその1つの表れだった。錦紗(紗の地に金糸で模様を織り出した反物)の着物に白いエプロンが女給の“制服”になった。事件と同じ1930年に単行本化された「放浪記」も、作者の林芙美子が一時の女給生活も交えて書いた自伝的小説。「女給」もそうした時代背景から生まれ、モデルをめぐる暴力事件もそこから派生した。

「女給」は大変な反響で、婦人公論1930年9月号巻末の「編集者の言葉」は「8月号は果然ものすごいばかりの売れ行きで、発売旬日にして再版しました。その再版がまた飛ぶように出払って、中にはついにお求めになることのできなかった方もあるだろうと思います」と書いている。すさまじい人気だったようだ。

時代の先端をいく「女性の職業の花形」だったが……

 小説を基に西條八十作詞、塩尻精八作曲の歌謡曲「女給の唄」が1935年10月に作られた。「わたしゃ夜咲く 酒場の花よ 赤い口紅 錦紗の袂(たもと) ネオン・ライトで浮かれて踊り さめてさみしい涙花」。ビクターレコードから羽衣歌子の歌唱で発売されてヒット。映画界も目をつけ、「女給」(曽根純三監督)が帝キネ(帝国キネマ)で映画化された。注目は小夜子を演じた主演の水原玲子。「キネマ旬報増刊 日本映画俳優全集・女優編」によると、広島市生まれで、地元の高等女学校を中退。「大阪へ出てカフエー赤玉の女給となり、たちまち売れっ子となる」。1930年9月、帝キネが「女給」製作に当たって「ヒロインを物色中、帝キネ専務取締役・立花良介に見いだされて同年10月、帝キネ太秦撮影所現代劇部に入社」。「主役の小夜子に扮した『女給』が封切られて、これが大ヒット。女給出身のスターとして騒がれた」という。当時はほかにも女給出身の女優が生まれた。時代の先端をいく女性の職業の花形だったといえる。