菊池は文壇にデビューしたころ、「新人発掘で名高い『中央公論』編集長の滝田樗陰に認められる」(鈴木貞美「文藝春秋の戦争」)。同書は「雑誌の編集作法について、菊池寛は『中央公論』とのつきあいから大きなものを得ていたはずだ」と指摘している。菊池からすると、甘えたのが手ひどく裏切られたような気持ちが付け加わっていたのかもしれない。
一方で、のちに中央公論社副社長となった牧野武夫氏の「雲か山か 雑誌出版うらばなし」は、嶋中社長の菊池寛への微妙な感情を記述している。「嶋中氏が中央公論の社長になった時には、菊池氏は既に文藝春秋社長として、文壇の大御所的存在であると同時に、雑誌経営者としても華々しい地位にあった。菊池・嶋中両氏の間柄が、かつては作家と編集者の関係にあり、今では雑誌社長として同業の立場にあるという複雑さが、もともと人間的には肝胆相照らすほどでもなかった2人の間に奇妙な空気を醸成していたことは、表面的には双方紳士の節度と礼譲を守っていただけに、何かのきっかけで何がいつ爆発するかもしれない危険をはらんでいたとも想像することができる」。さらに「中央公論社の八十年」によれば、「嶋中雄作が中央公論社の経営に乗り出してから、第二段に打った手は『婦人公論』の大衆化である」。過剰に見えた宣伝もその路線からだったのだろう。
殺伐とした事件なのに
こうして見ていくと、菊池の抗議が腹の底からの怒りによるものだったとは思えない。功成り名遂げた自分だが、女にもてないことを暴露されたのは面白くない。それで抗議文を送った(若いころから彼は速達の抗議文を送る癖があったと広津も書いている)。不満も残るが、これ以上騒ぐのはみっともない。まあこれで済まそうと思っていた。ところが、婦人公論側が題名を改竄し、「持ち込み原稿」として自分の権威を否定するようなことをしたのに激怒して殴り込み、やりとりの中でカッとして手を出した、というのがほぼ正確なところではなかったか。以後この件に一切触れていないのが、そうした心情を想像させる。
それでも、女性スキャンダルに端を発した文壇の大御所の大手出版社殴り込みという、いまならワイドショーや週刊誌が大騒ぎしそうな殺伐とした事件なのに、全体にどこか牧歌的な空気が漂っているのは90年前という時代のせいなのか、そこに菊池や広津らのキャラクターも加わっているのか。
【参考文献】
▽広津和郎「女給」 中央公論社
▽「別冊1億人の昭和史 昭和史事典」 毎日新聞社 1980年
▽戸川猪左武「素顔の昭和 戦前」 角川文庫 1981年
▽村島帰之「カフエー」 文化生活研究会 1929年
▽林芙美子「放浪記」 改造社 1930年
▽宮本吉次「文壇情艶史」 アジア出版 1961年
▽読売新聞社編「生きている名作のひとびと」 読売新聞社 1966年
▽永井康雄「銀座すずめ」 三修社 1969年
▽広津和郎「小説 同時代の作家たち」 文藝春秋新社 1951年
▽牧野武夫「雲か山か 雑誌出版うらばなし」 学風書院 1956年
▽鈴木貞美「文藝春秋の戦争」 新潮選書 2016年
▽「中央公論の八十年」 中央公論社 1965年