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【ゼロから分かる「神戸山口組」分裂騒動】ヤクザの名門「山健組」の内紛はなぜ起きたのか?

尾島 正洋 2020/07/25

 警察庁幹部が当時の状況について解説する。

「5代目組長の渡辺が山健組出身だから、内部で依怙贔屓のように何でも山健組が最優先とする『5代目裁定』が行われていた。弘道会出身の6代目組長司忍体制となって、弘道会が事実上山口組を支配するようになり『何でも弘道会優先』になったのは、この5代目裁定への怨念からだろう」

山口組の竹中正久組長射殺事件で、容疑者を立ち会わせて行われた事件現場マンションの実況見分(大阪、1985年2月) ©️時事通信社

揺れる「山健」ブランド

 山健組というブランドの威光が全国に行き届いていた山口組の5代目体制だが、次第に陰りを見せ始める。

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 カリスマ性で組織を率いた田岡らと違い渡辺は、リーダーシップを発揮していくというより、ナンバー2の若頭だった宅見組組長の宅見勝、総本部長に岸本組組長の岸本才三、若頭補佐には弘道会会長の司忍、さらには渡辺の後継者として山健組組長に就任した若頭補佐の桑田兼吉らを中心とするニューリーダーたちとともに集団指導体制を取っていた。

 順調な組織運営が行われていたと思われていたが、1997年8月に若頭の宅見が神戸市内で射殺される事件が発生。事件を引き起こしたのは、渡辺の親衛隊を自認する中野会を率いていた若頭補佐の中野太郎だった。

 原因は渡辺と宅見の間の不和だったとされる。しかし、この事件をきっかけに最高幹部との間に決定的な溝が生まれ、渡辺の指導力も事実上失われる事態となった。

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 引退に追い込まれた渡辺の後を引き継いで、2005年8月、6代目山口組組長に就任したのが、弘道会出身の司忍だった。これまでナンバー2の若頭には組長とは別組織の幹部が登用されてきたが、6代目体制では若頭に弘道会会長の高山清司が就任。ツートップが弘道会出身者となった。

 山口組の権力の中心が「山健組」から「弘道会」へと動いたのだ。

6代目山口組の司忍組長 ©️時事通信社

 弘道会支配がスタートすると、傘下組織の上納金と呼ばれる会費の値上げなど厳しいカネの徴収が行われた。さらに、人事の不満なども募った。

 そして2015年8月に、山健組を最大勢力として13組織が6代目山口組から離脱して、神戸山口組が結成されることになる。

 興味深いのは、カネを主たる理由に6代目山口組を離脱した神戸山口組だったが、同じ理由で、神戸山口組から山健組の一部が離脱しようとしていることだ。

 繁華街の飲食店などからみかじめ料(用心棒代)などを徴収することを禁じた暴力団対策法は1992年に施行されていたが、暴力団業界は2011年10月までに全国で整備された暴力団排除条例も追い打ちをかけ、その後はどこの組織もシノギが厳しく、脱落者が相次いでいる背景がある。

 神戸山口組でも、2015年の結成当初は上納金の減額などが行われたが、次第に弘道会同様の厳しい上納金の問題が浮上していったという。