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「決闘で勝ったほうが正しい」時代から「戦争と法」はどう進歩したのか

カミュ『正義の人びと』が指し示す 戦争の道徳的ディレンマ

2020/07/31
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「勝った方が正義」を前提にしていると……

――「必要最小限の武力行使」という論の一方で、歴史を見ると「勝った者が正義だ」という考え方も支配的だったわけですよね。

長谷部 その考え方は、17世紀前半、三十年戦争期のオランダの法学者グロティウスが、「決闘で勝ったほうが正しいんだ」と理論化しました。つまり戦争というのは、裁判外紛争解決手続、つまりADR(alternative dispute resolution)であって、国と国が戦争するときはどちらも自分のほうが正しいと主張するもので、国内の紛争なら裁判所が決着をつけるが、国際社会には裁判所がないので決闘で解決することになると。

 これはこれでひとつの説明の仕方ではありますが、この議論を前提にしていると、所詮戦争は強いほうが勝ちますから、どんどん軍拡競争をすることになる。第一次世界大戦へとつながっていったのもそうした論理です。

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 第一次大戦はあまりに悲惨な戦争だったので、その反省から導かれた全く新しい考え方を採用したのが1928年のパリ不戦条約でした。「国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄」したエポックメイキングな転換点です。仏ブリアン外相と米ケロッグ国務長官のイニシアティブにより締結されたこの条約は、当初15カ国が調印し、のちに63カ国が参加しました。これによって、紛争の解決に武力行使や武力による威嚇することは明確に違法となりました。日本の憲法9条にも受け継がれている精神です。

 無論、戦争はよくないことくらいみんなわかっていたわけですが、紛争を解決するための戦争の放棄という考え方が国際社会において浸透するためには、それなりに時代環境が成熟する必要があったわけです。

©山元茂樹/文藝春秋

理想の生き方は、人それぞれで異なります

――人と人が互いに殺し合わないようにするための仕組みづくりの模索が法の歴史でもあるんですね。

長谷部 これは戦争に限ったことではないですが、理想の社会、理想の生き方は、人それぞれで異なります。どちらがいいのか、悪いのかを決められる共通のモノサシはない。だからこそ、異なる理念や価値観を持った人が、可能な限り公平に扱われて生活できる枠組みをいかにつくるかが肝心です。その模索の結実が、いわゆる近代立憲主義です。

 きわめて幸いなことに現在の日本国憲法は近代立憲主義の考え方に立脚しています。こういう原理を持った憲法の下で暮らしている国は世界のなかでも限られています。この憲法の下で暮らしていることがどれほど幸福なことなのかをわれわれはもう少しかえりみる必要があるでしょう。

 近代立憲主義を具体化している憲法のベースにあるのは、「基本権」の尊重です。基本権というものは、ああしろこうしろと明確には言いません。例えば、表現の自由という権利は守られるべきだ。では実際の運用としてどうすればいいのか、人のプライバシーを暴くことと、報道の公益性のバランスはどこにあるのか等、それは「自分で考えなさい」というのが基本権です。人間は平等であるべきだといった基本権も同様です。それを現実の社会のなかで実現するにはどうしたらよいのかは自分で判断しなさいという性質の理念なんです。

 一方、いわゆる道路交通法や手形小切手法といった普通の法律は、「自分で判断しないで言う通りにしてくれ」という法です。左側通行がよいか悪いか、各人が自分で考えて判断したら大混乱になるわけです。