――1970年代後半から80年代前半にかけての最盛期には大型ホテルや喫茶店だけでなく、ゲームセンター、パチンコ屋、ストリップ劇場がひしめき合っていたそうですね。「夕方のメイン通りには、ポン引きから娼婦から客からもう、まっすぐ歩けんほどいっぱいおりましたわ」という住民の証言からは、一大レジャーランドのような繁栄ぶりが伝わります。この小さな島に売春産業が栄える特別な条件があったのでしょうか。
高木 70~80年代前半にかけての最盛期には、人口200人の島に60~70人もの娼婦がいたといいます。競艇場の建設計画もあったそうです。地方の消防団なんかの慰安旅行がたくさん入ってきて、そういう団体客で島は潤ったんです。
売春のルーツもそうでしたが、繁栄したのも地理的な理由が大きいはずです。女の子を抱えて売春を斡旋する置屋にとっては、隔離された島だと女の子を管理しやすい。客にとっては風光明媚な離島というのは非日常を味わう絶好のシチュエーション。客も限られた選択肢の中からでも必ず女の子を選ぶ。だから女の子たちはある程度の稼ぎを確実に手にすることができた。そういうバランスがあったわけです。その活況は、派遣型のデリバリーヘルスが登場して風俗業の多様化が一気に進んだ2000年ごろまで続いていきます。
ロングなら「女の子の暮らす部屋に宿泊、朝ご飯も」
――島ではどんな売春システムが受け継がれてきたのでしょうか。
高木 プレイの料金は基本、60分の「ショート」が2万円、翌朝までの「ロング」が4万円。うち半分くらいを置屋が取って、残りが女の子の取り分だったという話もあります。ただ、システムはそのように決まってはいても、女の子に「仕事、仕事」という感じはなかったそうです。
一応、宴会に呼んだ女の子のうち、客が気に入った子と“自由恋愛”になって……という建前です。ロングの客で、旅館に部屋を取っていない場合、自由恋愛の末に女の子が暮らしている部屋に行って朝まで過ごす。だからプレイの時間も内容も実はあいまいなんですね。
ロングを選択して女の子の部屋で一晩過ごした客は、そこで女の子が作ってくれた朝ご飯を一緒に食べるわけです。相手がタイの女の子だったらトムヤムクンを作ってくれる……なんて情緒あふれるおもてなしもあったようです。しかも帰るときは船着き場まで女の子が見送りに来て、「また来てね」と手を振ってくれる。つかの間のアバンチュールというか旅行気分を味わえたそうです。