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ところが日本では、一向に検査体制が拡充される気配が見えませんでした。
イタリアを含む欧州の人々にとっては、物事に対して「疑念」をもつことがデフォルトです。何事もまず疑う。それは彼らの文化的な思考力であり、生存のための知恵でもあるのです。ですから私にも、何かにつけて「おかしいと思わないのか」とまず言ってくる。
たとえば、「日本で発表されている感染者数は少なすぎるだろう」と夫が言い出しました。いわく「あのクルーズ船から下船したあと、乗客たちは通常通りにバスや電車に乗って帰ったらしいじゃないか。それで感染が広がらないわけはないだろう」。
そこで私が「報道ではこう言っていた」と、得た情報を基にした発言をすると、「まだ『報道では』とか言っているし。報道はいくらでも真実を隠しているってこと、わかってるはずじゃないか」とさらに訝しく思われる、といった具合です。
彼らから見れば、「近隣国の中国や韓国での感染者数が爆発的に増えているなかで、日本だけ何事もないような平穏な状態とはおかしい」わけです。その結果として出てくる疑念が、「オリンピックを開催するために数字が抑制されているのでは」というものでした。
この意見はイタリアの夫だけでなく、アメリカ人やブラジル人の友人たちからも言われたことです。そしてまた、「来年に延期しても、オリンピックなんてこの状況ではできないんだから、お前がどこかで訴えてやれ」と、私に対して怒りを孕んだ疑念をぶつけてきます。