それからしばらくして、鈴木は黒田が1勝するたびに、投球の印象や応援の言葉を記したメールを黒田に送り始めた。それは球団を代表したものではなく、ひとりの知人としての便りだった。復帰については触れなかった。そのメールは2014年まで続いた。
黒田に惹かれる理由はいくつもあった。プロならば努力して成長するのは当たり前なのだが、年を重ねるほど進化している。遅咲きの、その意味ではカープ好みの選手なのである。
黒田の生い立ちと両親
彼は南海ホークスの外野手だった黒田一博の次男として、1975年に生まれている。一博は社会人野球の強豪である八幡製鉄から南海に入団し、1951年からのパ・リーグ3連覇に貢献した。引退後はスポーツ用品店「黒田スポーツ」を開くかたわらで、ボーイズリーグ「オール住之江」を作って監督として選手を育て、黒田を大阪の強豪・上宮高校に進ませたが、黒田自身は控え投手に過ぎなかった。
それが専修大学に進学すると150キロ台の速球を投げるようになり、ドラフト2位でカープに入団する。初めは速球とフォークだけの不器用な投手で、12勝を挙げてチームの勝ち頭となるのは入団5年目、2001年のことである。
その翌年の夏に母親の靖子が60歳で亡くなる。鈴木が取締役球団部長兼営業企画部長のころで、彼は球団を代表して葬儀参列のために大阪へ出向いた。
葬儀の約2時間前に鈴木は着いた。近くの喫茶店でアイスコーヒーを飲みながら、黒田の母親の“伝説”を思いだした。
靖子は高校の元体育教師で、しつけに厳しい母親だったという。上宮高校の野球部監督から「とにかく走れ」と指示された黒田が4日間、風呂にも入らずに走り続けた話が残されている。見かねた先輩部員の母親が、息子と黒田を合宿所から連れ出して自宅で風呂に入れた。ところが電話で連絡を受けた靖子は、黒田をすぐに合宿所に送り返すように求めた。戻った黒田はまた走り始めた、というのである。
式場にはたくさんの教え子が列を作った。黒田が「強烈なオカンやった」と言う人は、惜しまず愛情を注いだ先生だったのだろう。そう思っていると、代表焼香で鈴木の名を呼ぶ声がした。