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「私はろう者ですから、許してくれるかも」なぜ、19歳の青年は“狂気の連続殺人犯”になってしまったのか

太平洋戦争開戦前後に起こった、狂気の連続殺人事件とは #2

2020/08/30
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「次いで裁判長は被告の斉声状況を調べるため、通訳を通じ姓名、父、母、兄姉らを次々に問えば、被告は相当はっきりした発声を示して一同を驚かせた。裁判長『一番うれしかったことは何か』。被告『盲唖(聾唖)学校へ入学した時でした』。裁判長『一番悲しかったことは』。被告『兄を殺した時でした』。裁判長『腹が立ったり残念だったことは』。被告『父を殺したつもりだったのが生き返ったということを聞いた時でした』」。はたして、どれほど「はっきりした発声」だったのか。公判ではその後、内村教授らの精神鑑定と耳鼻科医の鑑定が読み上げられた。

公判での裁判長と誠策被告のやりとりを伝える静岡新聞

精神鑑定が全く考慮されることなく下された「死刑判決」

 2月9日付同紙朝刊は午後の公判での求刑を報じている。「井上検事は『被告を常人と看做(みな)し、特に尊属親殺害はわが国忠孝の本義に悖(もと)る(正義に反する)』と論告。死刑を求刑した」。判決は同年2月23日。24日付静岡新聞朝刊はベタ(1段)記事。「13時30分、浜松支部に開廷され、沢村裁判長は不具者とは認めがたしと、求刑通り死刑の判決を下したが、被告は直ちに上告の手続きをとった」と短く伝えている。

 最大のポイントだった被告の刑事責任能力の判断は「精神鑑定」に内容が載っている。「(鑑定結果は)心神耗弱者と信ずとの記述のみにては直ちに被告人を法律上の心神耗弱者なりと認むべき資料にならず」「被告人の左耳はある程度の聴力を保有し、またその発音機能も簡単なる単語を発声し得るのみならず、本件犯行当時並びに現在において、被告人は相当の知識を習得し、記憶力よく、事物に対する具体的判断力十分なることをうかがい得べく、かかる知能の発達は主として被告人の有する聴力及び発声機能の仲介に基づくものと言うべく、この点において、被告人の有する能力並びに発音機能の障害は、いまだこれをもって法律上の聾唖の程度に達せず、従って、被告人をもって聾唖者と断ずることを得ず、すなわち、弁護人の主張はいずれも採用し難し」。

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 精神鑑定の全面否定どころか、これでは鑑定の意味がないといえるだろう。「精神鑑定」は判決をこう批判している。「これはあるいは戦時の影響もあってのことかと推測するが、しかし、理論上から、われわれはこの判決に大きな疑問を抱かざるを得ない」。さらにこの判決にはまだ指摘するべき点がある。

 当時の刑法40条は「瘖唖(いんあ=聾唖)者の行為はこれを罰せず、またはその刑を減軽す」とし、刑の減免の対象だった(1995年削除)が、判決はその適用も明確に否定した。しかし、よく考えれば、この法的行為は、戦時体制下とはいえ、個人の権利を保護する近代国家の姿から懸け離れている。そうした不公正な国が戦争に勝てないのは自明の理だろう。

 それから事件は急速に忘れられていったようだ。同年6月19日、上告棄却、死刑確定。東朝は「唖の殺人犯に死刑」、東京支局発の静岡新聞は「殺人犯死刑確定」の見出しでいずれもベタだった。既にサイパン陥落、東条内閣総辞職が翌月に迫り、日一日と敗色が濃くなっていく。殺人以上に深刻な戦争の恐怖が地域を覆っていた。静岡県警察史は「同(1944)年7月24日、21歳を最期に刑場の露と消えた」と書いているが、地元静岡新聞にも記事は見られない。

【参考文献】
▽「静岡県警察史」 静岡県警察本部 1979年
▽「浜北市史 通史下巻」 浜北市 1994年
▽佐藤友之「冤罪の戦後史」 図書出版社 1981年
▽内村祐之「精神鑑定」 創元社 1952年

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