「津山三十人殺し」は、その衝撃的な被害者数の多さと犯行の態様の異様さに加えて、容疑者が自殺して動機がはっきりしないこと、報道が極めて限られたことなどから、猟奇ミステリーとして、あるいは大量殺人伝説として、いまも人々の心理の奥底で関心を刺激し続けている。
そうさせたメカニズムを考えていくと、やはり戦争の時代だったことが浮かび上がる。「戦争の色に濃厚に彩られた兇悪事件」という面が最も強いと思える。その結果、本当にあったことなのかどうか定かでないフォークロア(伝承)のようになったといえるのかもしれない。事件の周辺をもう少し探ってみよう(今回も「差別語」が登場する)。
一部でしか報じられなかった「津山三十人殺し」
「村の人たちは突然、時ならぬ銃声と、ただならぬ悲鳴に眠りをさまされた。銃声は一発にとどまらず、間をおいて二発、三発とつづいた。悲鳴、叫声、救いを求める声はしだいに大きくなってきた。何事が起こったのかと表へ飛び出した人々は、そこに世にも異様な風体をした男を見た。その男は詰襟の洋服を着て、脚に脚絆をまき草鞋をはいて、白鉢巻きをしていた。そしてその鉢巻きには点けっぱなしにした棒型の懐中電燈二本、角のように結びつけ、胸にはこれまた点けっぱなしにしたナショナル懐中電燈を、まるで丑の刻参りの鏡のようにぶらさげ、洋服のうえから締めた兵児帯には、日本刀をぶちこみ、片手に猟銃をかかえていた」
横溝正史のミステリー小説「八つ墓村」の冒頭の一節だ。1977年には野村芳太郎監督によって映画化され、話題になった。「鳥取県と岡山県の県境にある山中の一寒村」で「大正X年」、旧家の当主が無理矢理「妾」にした女と子どもに逃げられたことから「狂気を爆発」。村人を襲う。「即死したものは三十二人。実に酸鼻を極めた事件で、世界犯罪史上類例がないといわれている」。
小説が津山三十人殺しをモデルにしていることは知られているが、軍国主義化が進む時代に起きた事件は、地元以外ではほとんど報道されなかった。小説の連載が始まったのは雑誌「新青年」1949年3月号。横溝はどのようにして事件の存在を知り、小説に取り入れたのか。
「昭和13年に起こった、この世にも恐ろしい事件を、私がはじめて聞いたのは終戦後のことだった」と「横溝正史自選集3」の「付録資料 八つ墓村」に書かれている(初出は1977年の毎日新聞の連載記事)。「当時私は、農村を舞台にして、そこに起こるいろんな葛藤を織り込みながら、できるだけたくさん人殺しのある小説を書いてみたいと考えていた」。横溝一家は1948(昭和23)年7月まで岡山県吉備郡岡田村(現倉敷市真備町)に疎開していた。「(昭和)22年の秋か23年の春ごろのことだったろう。土地の新聞の主催で県警の刑事部長と対談したことがある。そのときである。ひとりの男が一夜にして30人もの男女を銃殺あるいは斬殺したという、世界犯罪史上例のないこの恐ろしい事件の話を聞いたのは。昭和13年といえば、私は胸を患って、信州上諏訪に転地療養中のことだったが、同じ国内にこのような酸鼻を極めた事件があったとは夢にも知らなかったので、私は実際愕然とした」(「付録資料 八つ墓村」)。