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「津山三十人殺し」の約70年前にも大事件が

 津山三十人殺しはまた、別な伝承ともつながる。

「凶漢都井睦雄を生んだ岡山県苫田郡西加茂村大字行重といえば、美作地方の古老にとっていまなお深い思い出とされる慶応騒動に、これが発頭人として津山城下の村を騒乱の巷と化した仁木直吉郎の出身地である」。岡山の地元紙「合同新聞」1938年5月25日夕刊に掲載された連載企画「稀代の殺人鬼・都井睦雄(中)」にはこう記されている。

「凄い三つ目小僧」その夜の睦雄の扮装を描いた合同新聞

 仁木直吉郎とは直吉とも呼ばれ、幕末に起きた「美作改政一揆」の主謀者。記事は続く。「この直吉郎が慶応2(1866)年霜月(11月)24日の夜、いよいよ一揆の旗揚げをやったのが、今回都井睦雄の最期を遂げた自殺現場たる荒坂峠であった」。「津山事件報告書」中の「三十三名殺傷事件の現場を訪れて」で、中垣清春検事が「そこからは(事件現場の)貝尾部落は一望の下にあった」と書いた場所。約70年前、そこは歴史を揺るがす事件の舞台になっていた。

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「加茂谷の村々(現津山市加茂町)の小百姓たちは、嘆願書をしたため、藩主に直訴すべく、一揆の火の手をあげるのである。いわゆる津山藩改政一揆の始まりであり、それは美作一国に波及した騒動の口火となった」と「岡山県史第12巻近代3」は書く。

 幕末、津山藩の農民は米価の上昇など物価の高騰、凶作の連続、年貢米収納の強化に苦しんでいた。「この年(1866年)は天保7年同様の大飢饉で」「そのうえ、第二次長州征伐のための芸州への人足・宰領人夫役は村方にとって大きな負担となった」(「岡山県の地名」)。農民は年貢の減免を求めたが、ほとんど受け入れてもらえなかった。直吉が立ち上がり、中農層を中心に同志を集めた。

事件の主要な舞台となった貝尾部落(「決定版昭和史8」より)

 11月24日、「既にその日も七つ時にもなりければ、直吉良(郎)もわが家を出、途中にて待ち受けてほどなく人々出で来り、いかにして人数をこしらえんと言いければ、おのおのたいまつ二、三丁ずつこしらえ荒坂へ登り、時刻六つ半時と思いしころ、皆々たいまつをともし、ときの声をあげられよ。その時、寺の鐘をつかすべし」と、2年後にまとめられたとされる「改政一乱記」は記録している。「直吉の狙いは見事的中し、一揆勢は膨れ上がり、(津山)城下を指して動き出したのである」(「岡山県史第12巻近代3」)

 一揆勢は自らを「非人」(被差別部落民)と称し、大声で練り歩いた。美作地方では「非人装束」を着け「非人」を自称する要求行動の伝統があった。これは「非人同様の境遇に落とした領主への批判」「領主の支配を受けない『アウトロー』としての行動の自由の確保」の意味があったとされる。津山藩が妥協して一揆は収拾。直吉らは牢に入れられたが、明治維新後解放された。地元ではこの改政一揆のことを知らない者はないという。

 直吉は為政者に反旗を翻した、農民にとっての英雄であり、荒坂峠は「聖地」だった。そこを死に場所に選んだのは、睦雄のどこかに国家や権力に反抗したヒーローにあこがれる心情があったということだろうか。