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事件前々日に何があったのか

 対して、都井睦雄を取り巻く時代の“視線”はどんなものだったか。盧溝橋事件に始まる日中全面戦争も2年目。首都南京陥落後も中国国民党軍の抵抗は続き、「国民政府を相手にせず」という近衛文麿首相の言葉とは裏腹に戦線は泥沼化。4月7日、徐州作戦が下命された。華北と華南の占領地区を結びつけて、「事変」にメドをつけるのが狙い。その中で岡山県民が一喜一憂したのが郷土部隊である岡山の陸軍歩兵10連隊(連隊長・赤柴八重蔵大佐)、通称赤柴部隊の動向だった。「『鬼の赤柴部隊』との異名をとって、多くの犠牲を出しながら、まさしく日本が泥沼の破滅へと歩んでいくのと行を共にしたのであった」と「岡山県史第12巻近代3」は書いている。

事件直前の5月19日、徐州が陥落。日本軍が入城した(「決定版昭和史8」より)

 同書は「そうした雰囲気の中で銃後の体制が着々と整えられていく」として前年1937年8月の地域の動きを紹介している。県知事以下、県幹部、県会議員が「国威発揚、皇軍武運長久」を祈願。在郷軍人会を中心に、市町村や警察が乗り出して各地域に銃後後援会=軍人後援会あるいは国防婦人会を組織していく。「こうして、銃後における戦争熱が高まる中、次々と歓呼の声に送られて出征した兵士たちも、その多くがやがて『白木の箱』に入って故郷に帰ってくる」「この戦死者を村を挙げ町を挙げて英雄として祀り、戦争熱をさらに増幅し煽動していったのである」(同書)。

事件報道の脇には郷土部隊の戦死傷者を報じる記事が(合同新聞)

 事件の前々日、1938年5月19日、徐州城陥落。事件を報じる合同新聞の同じ紙面には「赤柴部隊戦死傷者」の名前と写真が並ぶ。そんな空気の中で、都井睦雄の犯行がどう受け止められたかは明らかだろう。