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都井睦雄と事件は地域のタブーになった

 事件発生当初、東京と大阪の朝日は、容疑者都井睦雄(21)について「岡山県(下)の鬼熊」と見出しに取った。「鬼熊」とは「昭和の35大事件」で取り上げた、12年前の1926年、千葉県の山村で男女関係のもつれから女性や警官ら3人を殺害した「鬼熊事件」の岩淵熊次郎のこと。比較してみよう。

 犠牲者数は鬼熊は3人、睦雄30人で10倍。凶器も、鬼熊は警官のサーベルや鎌。睦雄は、事件前、住民からの通報でいったん用意した猟銃と銃弾を警察に取り上げられるが、偽名で再び猟銃を入手。自分で5連発から9連発に改造し、銃弾も火薬を増量して猛獣用に詰め替えた。その結果、威力はすさまじく増強され、30人はほぼ即死。けがで済んだ被害者はわずか3人だった。動機とされた男女関係、人間関係は、いずれも容疑者死亡で完全な解明は不可能。山村社会の閉鎖性も場所によって異なる。

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 そうやってみていくと、鬼熊にあって睦雄にないものが大きく言って2つ。鬼熊が地域社会でおおむね人に好かれていたこと、そして、それもあって40日以上も逃げ回ったことだろう。その間に、東京の芸者にも鬼熊のファンができ、事件をうたった演歌が作られて歌われ、便乗した即製映画も製作された。

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 対して、睦雄は地域から浮き上がり、はじき出され、事件と彼の存在は地域のタブーとなった。生き残った被害者や遺族、子孫も地域を去った。鬼熊事件で鬼熊や被害者の子孫が現在まで地域で生活し続けているのとは対照的といっていい。鬼熊と鬼熊事件は「陽」で、睦雄と津山三十人殺しは「陰」といえる。

 そうした違いを生んだものはやはり時代だろう。鬼熊事件当時は大正から昭和への代替わり直前。大正デモクラシーの名残りも色濃く、「国家権力=軍隊と警察に対する国民の批判力や反抗心をつちかうことにもなった」(加太こうじ「昭和犯罪史」)。警察や消防を“手玉にとって”逃走を続ける鬼熊を応援する庶民の心情の根っこにそれがあった。