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「血みどろの死体写真が麗々しく陳列された」展覧会

 山口直孝「『八つ墓村』の着想から完成まで」(「横溝正史研究6」所収)によれば、それは1948年4月の2日間にわたって地元紙に連載された刑事部長らとの座談会の席上だった。しかし、この時点ではまだ、この題材を小説にしようと考えていたわけではなかったという。

「付録資料 八つ墓村」には「それから間もなくのことだったが、同じ新聞社の主催で、岡山市のデパートで『防犯展覧会』というのが催されたことがある。私は新聞社の招待でその展覧会を見たのだが、そこに津山事件の被害者の、世にも凄惨な現場写真の数々の陳列されているのには驚いた」と書いている。「いずれも貧しい農家であった。そこに銃殺、あるいは斬殺された血みどろの男女の死体の写真が麗々しく陳列してあるのだから、目を覆いたくなるような展覧会であった」と付録資料にはある。戦後間もなくであれば、そうした展示会があっても不思議はない。

津山三十人殺しをモデルに「八つ墓村」を生み出した横溝正史 ©文藝春秋

「『八つ墓村』の着想から完成まで」は、津山事件のことを聞いたとき、横溝は最初、1888年にロンドンを震撼させた「切り裂きジャック」を連想したと記述している。津山事件のことを聞いたうえ、防犯展を見たことで、横溝にとって「津山事件は二段階の過程で受容されたといえる」と同論文はいう。

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 事件翌年、当時の岡山地方裁判所検事局がまとめた(発行名義は司法省刑事局)「津山事件報告書」は、占領期間中に接収された1冊がアメリカの大学図書館に所蔵されており、マニアはそれを見ているようだ。事件研究所「津山事件の真実第三版」所収の報告書もそのルートだが、そこには犠牲者の遺体写真1枚と、犯行後、自殺した睦雄が倒れている写真3枚が掲載されているだけ。実際にはもっと多くの現場写真が載っているはずで、「防犯展」で展示されたのは、それと出所が同じ写真だったと思われる。報告書は日本国内の大学なども所蔵しているが、現在閲覧が難しいのは“残虐”なためだろう。

 横溝はその後、坂口安吾の「不連続殺人事件」が雑誌に連載されたのをヒントに、疎開先で世情に詳しい人に聞くなどして構想を練った。「書き出しに当たって初めて津山事件が脳裏にひらめいた」「私も、本格探偵小説の骨格は崩したくはないが、一つスケールの大きな伝奇小説を書いて見ようと思い立ち、それには津山事件は格好の書き出しになると気がついたからである」と「付録資料 八つ墓村」にある。三十人殺しに現実離れした世界を感じたということかもしれない。