いつもの中国のやり方が、モンスターになってしまった
そして、米中対立の点でも、いま問題になっている新疆ウイグル自治区、チベット、香港、台湾、南シナ海、内モンゴル、ロシアといった中国外縁部の進出、さらには一帯一路、中国製造2025のような重商主義的な保護貿易と窃盗じみた知的財産権の取り扱いの問題については、概ね中国政府(中国共産党)の経済政策などの施政と外交の問題であると言えます。香港で施行された「香港国家安全維持法」だけでなく、世界にいる中国人にも域外適用される「国民情報法」の類は、比較的中国本土への進出が速かった私どもにとっても「いつもの中国のやり方が、そのまま修正されずにモンスターになってしまった」という印象を強く持ちます。
私の親父は長らく鉱物類の貿易や電気機械方面の製造業、産業廃棄物処理などの事業を営んできまして、私自身もバブル崩壊後の頃から親父のやり方を見て育ってきたこともあり、独立した商業・貿易とは何かを学んできました。親父が中国への進出を決めたのは早く、1994年に父の経営していた会社の一つ『ウォーリック社』や二つの共同出資した事業が中国・上海や深圳、大連にそれぞれ進出しました。
もっとも、理由は中国経済が伸びるだろうという先行きを見て取ってというよりは、大口の取引先さんが複数社現地に工場を出すことになり、それに伴って国内の仕事が干上がりそうになったので慌ててついて行ったというのが現実です。当時の日本はバブル崩壊後の失われた10年が始まり、さらに国際的な価格競争についていけなくなった各社が工場を海外に展開するという「産業空洞化」論が叫ばれていた時代でしたので、そういう日本国内の風向きもあって、仕方なく中国に出ていかざるを得なかったのです。
中国で事業をすればするほど、技術も資金も奪われる
その後、バブル崩壊後の住専問題や不動産投資の失敗で都市銀行などからの貸し剥がしもあり、私の親父も破産しかかり私も塗炭の苦しみを舐める状態になるのですが、それでも中国でのビジネスはまずまず順調に伸びていきました。
その当時、中国の工場進出の許可は比較的緩かったものの、徐々に市街地での操業については規制が入り始め、また、中国での労賃がどんどん引き上げられていく中で、中国人従業員による製造技術の盗難で類似のビジネスが現地でどんどん創業されるという憂き目に遭います。さらに、中国で得られた収益は現金を海外にみだりに出してはならない、行った投資は中国国内ですべて消化しなければならないという規制が厳しくなり、中国で事業をすればするほど、技術も資金も奪われるという「何のために中国に進出したんだっけ?」というジレンマを起こすことになります。
一番仇だったのは、取引先であるはずの日本企業が先に中国に進出したので、そこに納品するために工場を出したことで、その工場が中国法人となった日本企業に製品を納品することで工場に収益が上がってしまうのです。そして、その収益は「うまいこと」やらない限り日本に資本として持ち出すことができません。
さらに、当時ロシアとの貿易も営んでいたので、極東ロシアの奥地にあるサハから豆満江(中国、ロシア、北朝鮮の国境を流れる川)を越えて中国国内に希少金属を輸送すると税関で明確に賄賂を要求されます。これに一部応じると、今度は汚職摘発の官憲から賄賂を贈ったことを言い咎められて罰金を支払わされます。さらには、税関で不適切な物品があるので積み荷の半分を没収されるということが一再ならずあり、今度はインボイスに記載された積み荷と到着した積み荷の量が異なるので適切な納税をしていないのではないかと脱税の嫌疑をかけられる始末です。何をしても、言いがかりをつけられて、違法・合法を問わずカネをむしられるという事態は、おそらく中国に進出した人たちであれば誰しもが経験しているでしょう。理不尽極まりないですが、これが中国なのだと割り切って飲み込むしか方法はありませんでした。