――やっぱしお前は、新時代の人間じゃあねえようだ。
上野駅前の柊元(くきもと)旅館で働く生野次平は、好色家を自称するものの、実は女に対して強引な態度をとれず、仲間からは「青春のかけらというやつを、まるで味噌漬にしてるような」とからかわれる男だ。ある夜のこと、生野が遅い時間に一人風呂に浸かってうとうととまどろんでいると、女が近づいてきて二の腕をつねっていった。パトロンに連れられてやってきた、於菊という名の女だ。すっかり面影は変わっていたが、彼女は生野にとってちょっとした因縁のある相手だった。
森繁久彌主演映画の原作としても知られる井伏鱒二『駅前旅館』は、口ほどになく純情な男の恋愛模様を描いたユーモア小説だ。
生野本人が戦前戦後で気風もすっかり変わったと語っているように、井伏が本作を発表した当時でさえ、彼がつとめるような「旅館の番頭」は過去のものとなりつつある職業だった。時代遅れの男が、時代遅れな形の恋をする物語が、時代を感じさせる符丁交じりの文体で軽やかにつづられていく。
小説の前半は因縁ある女性との再会という淡い期待を胸に秘めての甲府行、後半は番頭仲間が愛人同伴で湯治に行くことを目論んだために起こった珍騒動(新聞に旅行同伴者募集の広告を出す、というところにまた時代を感じる)が話の主筋となる。於菊や、生野が足しげく通う飲み屋のおかみら、どう見ても脈がありそうな女性を前にしても彼はあと一歩を踏み出すことができない。その様子をもどかしく思いつつ、共感を覚える読者は多いはずだ。不器用男に気を揉みつつ、忙しくページをめくった。(恋)