天然痘の脅威
天然痘は古くから人々を苦しめてきました。
古代エジプト第20王朝の第4代ファラオだったラムセス五世のミイラには、天然痘によってできた痘痕が見られます。また1521年のアステカ帝国崩壊や1572年のインカ帝国崩壊には、侵略者のスペイン人によってもち込まれた天然痘の蔓延が大きく影響していると言われています。例えばインカ帝国では、天然痘によって人口の60~94パーセントが死亡したと推計されているのです。
さらに天然痘は北米にももち込まれ、数多くの先住民を死亡させました。当時、先住民のアメリカ・インディアンは天然痘の免疫をもたなかったため、この病原体に対する抵抗力がまったくありませんでした。
こうして、コロンブスがアメリカ大陸に到着した当時には、約7200万人に及んだ南北両大陸の人口も、1620年頃には60万人にまで激減してしまいました。天然痘などの感染症と侵略戦争が原因でした。また18世紀のヨーロッパだけで、その100年間に6000万人が天然痘によって死亡したと推定されています。日本では735年から738年にかけて天然痘が大流行し、平城京では政権を担当していた藤原四兄弟がこの病により相次いで死去しました。四兄弟以外の高位貴族も多数死亡したために朝廷の政治は大混乱に陥ったのですが、奈良の大仏造営のきっかけの一つが、この天然痘流行であると言われています。
医学史を専門とする慶應義塾大学経済学部教授・鈴木晃仁氏によれば、日本においては戦国時代にも天然痘の流行が認められ、当時は5年に一度、江戸時代に入っても30年に一度のペースで流行が起こっていたということです。そして江戸時代の天然痘は、子どもが必ずかかる小児病として猛威をふるい、当時の人口構成に大きな影響を与える病でもあったといいます。
天然痘の撲滅
天然痘が強い免疫性をもつことは近代医学成立以前から経験的に知られており、紀元前1000年頃にはインドで人痘法が実践されていたようです。人痘法というのは天然痘患者のウミを健康な人に接種し、軽度の発症を起こさせて免疫を得る方法です。この場合、患者のウミは、毒性を弱めるため乾燥させた後に使われました。この人痘法は18世紀前半にイギリス、次いでアメリカにももたらされ、天然痘の予防に大いに役立ったのですが、当時予防接種を受けた人の数パーセントが重症化し、死亡していました。
より安全な天然痘予防法は、1796年にイギリス人医師エドワード・ジェンナーによって考案されました。ジェンナーが医師として活動していた当時、農民の間では「牛の乳搾りなどをして自然に牛痘にかかった人は、その後天然痘にかからない」と言われていました。牛痘は、天然痘よりもずっと安全な病気でしたから、ジェンナーはこれを応用して天然痘の予防に使えないかと研究を続けていました。