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「忍び」を重用した武田信玄 創作と史実が入り交じる「忍び」の実態に迫る

『戦国の忍び』より #1

2020/09/10

genre : ライフ, 歴史, 読書

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出浦と忍びのつながりは誤読?

 出浦は、武田氏より透波を預かり、敵城に彼らを派遣して情報を探っていたといい、自らも潜入して諜報活動に従事しつつ、配下の透波の活動状況を監督していたという。しかしながら、出浦の史料を博捜しても、彼と透波を繋ぐ事実は窺われない。出浦が忍びの頭目と伝承されるようになったことについては、『真武内伝追加』『御家中系図』などで、小田原合戦時に、武蔵国忍城(おしじょう/埼玉県行田市)を攻め、大いに活躍したことを、「忍」と誤読・誤伝した可能性が指摘されている(丸島和洋・2016年)。

 また、『真田家御事蹟稿』『真武内伝』において、大坂の陣で真田信吉・信政兄弟に従い、後に真田家から離反した、馬場主水(角蔵とも)は著名である。彼は、夏の陣終結後、信之が大坂方の弟真田信繁に秘かに味方し、兵糧や玉薬などを横流ししていたことを幕府に訴えた人物として知られ、もと武田家の忍びで、その後は真田家に仕えていたという。馬場の訴えは、その後、幕府の詮議によって虚言であることが判明し、真田信之が罪に問われることはなかった。

山伏とのつながりが伝承の元か

 馬場が、真田家を讒訴(ざんそ)したのは、盗みの罪で成敗されそうになったのを、逆恨みしたからだという。幕府は、真田家からの馬場の身柄引き渡し要請を拒否し、彼を釈放して逃亡させたが、信之は家臣に追跡と成敗を命じ、3年かけて殺害されたといわれる。馬場の一件が、どこまで史実かは定かでないが、信繁との内通を疑われ、信之家臣宮下藤左衛門が成敗されたのは、どうやら事実らしい(丸島和洋・2015年、平山・2016年)。

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 この他に、吾妻谷の割田下総、唐澤玄蕃(げんば)、富澤伊予、同伊賀、同豊前、横谷左近などが、真田に仕えた忍びとして伝承されているが(山口武夫編・1985年)、確実な史料では、残念ながら確認できない。真田と忍びの繋がりが、江戸時代から取り沙汰されているのは、昌幸や信之の領国が、山岳修験の盛んな信濃小県郡や上野国吾妻郡に及んでいたことと関係があるだろう。そこで活動する山伏などを保護し、真田家は諜報活動を彼らに行わせたといい、それが真田昌幸・信繁父子は忍びを多数召し抱え、巧みに敵を翻弄したと考えるようになったのではあるまいか。