文春オンライン

「忍び」を重用した武田信玄 創作と史実が入り交じる「忍び」の実態に迫る

『戦国の忍び』より #1

2020/09/10

genre : ライフ, 歴史, 読書

note

 ただ、真田昌幸が、忍びを多数召し抱え、彼らを駆使して合戦を優位にしようとしていたことは史実である。このことについては、本書で詳しく紹介するが、天正壬午の乱を契機に、北条氏と上野国で激しい角逐を繰り広げていた際、真田昌幸は、北条方の城を乗っ取るべく、数百人規模の透波を派遣し、敵方を脅かしていた。また第二次上田合戦でも、「大かまり」(大人数の伏兵)を配置して、徳川秀忠軍を襲撃しようと試みていたことが、確実な史料から窺われる。このように、真田と忍びについては、それなりの根拠がありそうである。

 最後に、織田信長が秘蔵した忍びとされる「饗談」は、伊賀の忍術書として著名な『万川集海』巻一「忍術問答」が、その出典であり、その他にはほとんど管見されない。記して後考をまちたい。

武田信玄と忍び

 戦国大名の中で、古来武田信玄ほど、忍びとの深い関わりが取り沙汰される人物はいない。既述のように、『甲陽軍鑑』には、忍びを自在に操り、合戦を優位に導き、敵方を調略で切り崩す戦略を心得た大将として、信玄は描かれている。そして、江戸時代に成立した忍術書や、軍学などには、武田家に仕え、その時代の経験を活かして著述されたと伝わるものが極めて多いのも事実である。

ADVERTISEMENT

©iStock.com

 例えば、忍術書として著名な『正忍伝』は、延宝9年(1681)、紀州藩士藤一水正武(名取三十郎正澄[なとりさんじゅうろうまさずみ]、正武)が著したものであるが、彼は甲斐武田家に仕えた、武田遺臣の系統であり、甲州流軍学の開祖小幡勘兵衛景憲(『甲陽軍鑑』の編者)の流れを汲む。また、『軍法侍用集』の「窃盗の巻」は、信玄に仕えた服部氏信が持っていた秘伝を利用したものであることは、第1章で紹介したとおりである。

出典の明らかでない「三ツ者」

 そして、巷間流布する忍者本の多くに、武田信玄が大切に召し抱え、敵の情報を探るために放った忍びを「三ツ者(みつもの)」と呼んだと書かれている。ところが、確実な史料や記録に、武田の「三ツ者」はまったく登場せず、果たして事実かどうかは確認できない。そもそも、その出典すら、明らかではなかったが、精査してみると、やはり『甲陽軍鑑』と『万川集海』に行きつく。