昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

2020/09/14

genre : ライフ, 読書, 歴史

【勇治の生い立ち

 古関裕而(こせきゆうじ 本名勇治)は1909(明治42)年8月に福島県福島市で生まれた。生家は福島市で代々続く老舗の呉服屋で屋号を喜多三(きたさん)と云い、父親の三郎次は新しいもの好きで趣味人であり、福島で最初に金銭登録機を導入したり、蓄音機もいち早く買い込み、自分の趣味の謡曲はもとより、従業員たちに世界の名曲などを聴かせていた。勇治は幼いころから音楽に親しんで育ったと言える。

 福島師範学校付属小学校に入学すると、3年生のとき担任となった先生から童謡の作曲などユニークな音楽教育を受け、勇治は作曲の面白さにはまる。家業を継ぐために商業学校に進学するが、勉強より音楽にどっぷりとはまり、独学で作曲の勉強をし、作曲家を目指すようになる。丁度その頃家業が傾き呉服屋は廃業し、勇治は学校を卒業後、川俣町で銀行を経営する母方の伯父の勧めで、川俣町の伯父の家(母親の実家)に居候しながら銀行で働き始めた。川俣町は福島市の南東に隣接する小さな町だが、当時(昭和初期)は日本の輸出の花形だった絹織物、特に羽二重の産地として栄えていた。しかし所詮田舎の町、銀行も市が立つ日以外は暇で、勇治は作曲三昧の日々を過ごした。

 そして1929(昭和4)年に英国の楽譜出版社が主催した国際作曲コンクールに、舞踊組曲「竹取物語」で応募し見事入選し、英国へ留学のオファーまで受けた。この快挙は翌1930(昭和5)年1月23日に地元紙は勿論全国紙でも報じられ、愛知県豊橋市在住のオペラ歌手を目指していた乙女の目に留まることとなる。その乙女こそ私の母となる内山金子(きんこ)である。

3月8日金子の手紙

【金子の生い立ち

 金子は1912(明治45)年3月に愛知県渥美郡高師村(現在の豊橋市小池町)で生まれ、生家は陸軍ご用達の馬具商で、軍に馬の蹄鉄や飼料などを納めていた。商売は繁盛していたが、父安蔵が金子12歳のとき病死し、以後家業は母みつが細々と継ぐこととなる。金子には兄が1人、姉が2人、妹が3人おり、兄は早くに満州に渡っていたので、内山家は母と娘6人という女ばかりの賑やかな家庭であった。金子は自分のことを活発でお転婆で家の手伝いもよくした、と言っていたが、金子のすぐ上の姉の清子によれば、家事の手伝いはほとんどせず、音楽と読書ばかりして、いつも夢を見ているような子だったとのこと。どちらの話が本当だか分からないが、両方の話を足して割ったくらいが実際のところであろう。女学校を卒業する頃には、声楽家になりたくて宝塚か音楽学校に進学したかったようだが、それは経済的に無理だった。それでもオペラ歌手になりたいという夢は持ち続け、個人的に歌のレッスンを受けていた。

 そんなとき金子は運命の新聞記事に接する。小学生のとき学芸会でかぐや姫を演じて好評で、かぐや姫との渾名がついたこともあり「竹取物語」という舞踊組曲に大きく興味を引かれた。それはどんな音楽なのか? 自分より2、3歳しか歳が違わないのに、独学で国際作曲コンクールに入賞するとは、どんな才能の持ち主なのだろうか? 想像し始めたら止まらない。金子は持ち前の行動力で勇治に手紙を書き、それがきっかけでふたりの文通が始まることとなる。