【秘められた大騒動】
朝ドラの話が具体的になりつつあった3年ほど前、私はそれまで知らなかった資料に接した。前述の『古関裕而物語』の執筆の為に取材を重ねられていた齋藤秀隆先生のために、1999年当時まだ存命だった母の姉の市田清子が書いた父と母についての思い出話「清子の手記」と題された文書である。迂闊にもこの文書を知らなかった私は、その内容に驚愕した。
父と母が初めて会ったとき、ふたりは何を話し、何をしたのか?
私には想像出来なかったので、私の本は会ったところで終わりにした。しかし実際には、ふたりはそのとき大騒動を巻き起こしていたのである。
金子は勇治を出迎えに名古屋駅に行き、そのまま夜になっても帰って来なかった。村田氏は心配をして豊橋の実家に問い合わせの電話を入れ、行方不明になっていることが判明して大騒ぎとなった。実はこのとき、ふたりは名古屋の駅前の旅館に3日ほど泊っていたのだ。勇治が金子に、ひとりにしないでほしい、と頼んだらしい。
こんな大騒動を起こしたふたりは、その後豊橋の家に帰り詫びを入れ、結婚したいと、金子の母に許しを乞うた。その後福島から勇治の父も駆け付け、ふたりの結婚は認められることになるのだが、若いとはいえ、こんな大胆な行動をふたりが取っていたとは、私も私の姉たちも全く知らなかった。きっと父と母もずっと隠しておきたかった話だと思う。
その意思を尊重してこの騒動は、清子の手記を読んだ後の私も齋藤秀隆先生も、『古関裕而 流行作曲家と激動の昭和』(2019年 中公新書)の著者の刑部芳則氏も書かなかったのだが、ただひとり辻田真佐憲氏だけがその著書『古関裕而の昭和史』(2020年 文春新書)の中で書いてしまった。
公になってしまった以上もう隠すことはないが、きっと父と母は苦笑しているだろうと思う。
そして私はひとつの疑問を抱くことになった。母は常々子供たちに、結婚するまでは純潔を守るようにと、口酸っぱく言っていたのだが、それは自分たちの行動を後悔し反省していたからなのか、それとも自分たちのことは棚上げして、一般的な道徳教育のつもりだったのか?
他人の目を気にすることなく、自分が良かれと思うことはやり通す母だったから、自分たちの行動は、あまり褒められたことではないにせよ、心から愛し合っていたのだから良いのだ、と思っていたのだろうと思う。初めて実際に会ったその日に結ばれる。
物静かだが心の奥には情熱を秘めた父と直情的な母らしい恋愛であった。
【著者プロフィール】古関正裕(こせきまさひろ)
1946年、古関裕而・金子夫妻の長男として東京都に生まれる。成城学園初等科入学後、ピアノを習い始める。高校在学中にはバンド活動に熱中。1965年、早稲田大学理工学部に入学。70年日本経済新聞社に入社。98年早期退職後、ピアノを再び習い音楽活動を再開。2013年より父、古関裕而の楽曲の演奏を中心としたライブ・ユニット「喜多三」(きたさん)を結成しライブ活動継続中。2009年古関裕而生誕百年記念CD全集の企画・監修で、日本レコード大賞企画賞受賞。著書に『緋色のラプソディー』がある。