序盤の早指しが信じられないほど、慎重だ
70手目、永瀬が銀のタダ捨てで王手をかけると、豊島が席を立った。もう勝ちは動かないところまで来ている。離席中に永瀬はマスクをつけ、背筋を伸ばした。まるで、武士が切られる前に身を正すかのようだ。
豊島は戻ると盤面をじっと見つめる。飲み物に口をつけて、上を向いて呼吸する。序盤の早指しが信じられないほど、慎重だ。10分後、マスクをつけると、▲8七玉と王手をかわした。
永瀬は座布団を引き座り直した。丁寧な所作で、扇子を盤に平行にして膝の前に置く。投了を告げるのかと思いきや、△6八飛成と指した。王手が途切れて、ついに豊島に攻めのターンが回る。
▲4三桂成。永瀬の玉は詰み筋に入った。同玉に、豊島の2度目の▲5五桂を見て、永瀬が固まる。40秒の沈黙の後、「負けました」と小さな声で伝えた。
豊島「(永瀬叡王は)毎回、簡単には投げない印象ですね。それは棋譜を見ていても感じます。私も諦めがいい方ではありませんが」
第5期叡王戦の決着は、ついにタイトル戦史上初の第9局へ持ち越された。叡王戦独特のルールで、この日の内に次局の振り駒が行われる。別室で振られた駒は、と金が5枚並んだ。豊島が先手番になり、後手になった永瀬に、持ち時間の選択権が与えられる。次局の持ち時間は6時間に決まった。
二人の対局では最も短い手数での終局になった
控え室に永瀬に出されていたバナナが下げられてきた。全く手をつけられていない。「よかったら、みなさんどうでしょうか?」。スタッフに進められて、一つ頂いた。
本局は豊島の快勝譜だった。立会人の先崎にポイントを聞くと、「すごい差がついてしまった将棋なので、どこが分岐点だったか難しいですね」と答えた。総手数75手。二人の対局では最も短い手数での終局になった。
先崎は関係者に挨拶をすると、控え室を後にした。泊まらずに東京に戻るそうだ。永瀬も帰ることを聞き、ロビーで彼を待つことにした。
22時少し前に、タクシーが到着した。荷物を持った永瀬が姿を現す。さすがに表情には疲れが感じられた。不躾ながら一つだけ聞きたかった。
「スーツに着替えたのは、その方がベストパフォーマンスが出来ると思うからでしょうか?」
対局後に、最も煩わしく感じる質問だったと思う。しかし、丁寧に答えた。
「そうですね、着物はあまり得意ではないので」
彼をここまで引き上げてきたのは、自分と向き合う強さなのだと感じた。
玄関から続く小径の先にタクシーは待っている。木立に囲まれた庭園は闇に包まれ、足下の誘導灯が客人を導く。戦いの場を後にした、孤高の背中が仄かに浮かぶ。
永瀬は前を向く。決して振り向かない。
写真=野澤亘伸
INFORMATION
第5期叡王戦七番勝負第8局 棋譜
http://www.eiou.jp/kifu_player/20200906-1.html
第5期叡王戦七番勝負第9局(2020年9月21日09:30放送開始)
https://live2.nicovideo.jp/watch/lv327290479
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