「大概の場合、優勢な時は地べたを這った方がいい」
18時前に永瀬が指した手は△8八歩。直接的には桂取りだが、豊島の玉にすぐ響く手ではない。右辺の攻撃から左辺へと戦線を拡大した手だ。だが先崎は言う。
「もう諦めているんですよ。こんな将棋、頑張っていられないもん(笑)」
プロの目にはそう映るらしい。豊島は慎重に対処し、指さずに夕食休憩に入った。先崎は「二択だとかなりの確率でいい方を引ける。でも三択あると人は不安になる」という。そしてこう続けた。
「大概の場合、優勢な時は地べたを這った方がいい」
休憩中に再び雨が降り始めた。再開後、豊島は自陣を守らずに攻め合いを選んだ。両者の指し手が早い。変化に紛れが少ないのだ。それは永瀬が意図した流れではなかったかもしれない。
61手目、豊島は▲5五桂。ついに決定打ともいえる厳しい手が入った。永瀬は上着を脱ぎ、グイと水を飲んだ。横に置かれたバナナを一瞥する。今日はまだ手をつけていない。
66手目、永瀬が△5八飛と打つ。王手と金取りを兼ねた手で、反撃の強手に映る。だが先崎はその手を見て立ち上がった。
「終わりです」
一言そういうと、立会人として部屋に入る準備を始めた。豊島が王手に対して▲7八金と合駒をする。ニコ生の中継に目を移すと、評価値が豊島に+9999と振り切れていた。
張り詰めた糸がフッと切れたような気がした
外から涼しげなアオマツムシの鳴き声が響いてくる。いつの間にか雨は上がったようだ。先崎は検討していた駒をしまった。しかし、永瀬は考慮をやめない。
19時37分、豊島が着手してから永瀬2度目の離席。戻ると再び盤を睨む。頭を傾けて目を細めて息を吐く。もう指さないのかもしれない――と思いきや、再び前のめりになる。腕を組み替え、左手で眉間をさする。
控え室ではほとんどの者が立ってモニターを見つめていた。
「彼は実戦で強くなったタイプです。研究会やVSでは、真剣に指していると、投了しない傾向にありますよね。“形作り”の必要がありませんから。そういう感じじゃないですかねぇ」
先崎はそう話した。
19時51分、永瀬が着手せずに上着を着る。取材者たちがカメラを手にとった。豊島は俯いて黙する。間もなく永瀬の手が動いた。△7七桂成。
張り詰めた糸がフッと切れたような気がした。豊島に桂馬を渡せば、自陣に詰みが生じる。覚悟の踏み込みだが、この先の変化で豊島の玉に詰みはない。永瀬も読み抜いているはず……。
豊島「夕食休憩のあたりから、あの変化は考えていました。まだ時間が残っていたので確認というか。△7七桂成は思ったよりも直線的な変化に飛び込んできた印象でした。もう少し粘る手も他にあったと思います。ただ粘っても駄目という判断なのでしょうけども」