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――当初から4人の女性たちに3つのパートを演じてもらうことが決まっていたのでしょうか。

ダミアン・マニヴェル 最初は第1部に出演した女優のアガタ・ボニゼールと一緒にダンスの映画を撮ろうと考えていました。若い女性ダンサーの日記というテーマを構想していたんです。イサドラのソロダンスと出会ったことで、映画の構成とストーリーが少しずつ変化していきました。

 僕としては、イサドラの遺したダンスを、身体も年齢も異なる複数の女性に演じてもらいたかった。映画を作るうえでは、出演者たちの実人生からひらめきを受けた部分が大きいですね。第2部に出演したマリカ・リッジは実際に振付師であり二人の子どもがいる。第3部に関しても、肉体の老いというテーマを語るうえで、エルザ・ウォリアストン本人からインスピレーションを受けた部分はとても大きい。もちろん映画と全く同じ人生を歩んでいるわけではないけれど、ここに映されているのは彼女たち自身の感情です。ある意味で、これは役を演じてくれた女性たちのポートレイトでもあるんです。

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ダンスを映画として“翻訳”する

――それぞれの女性が「母」というダンスを踊ろうと試みますが、映画のなかでその完成形ははっきりとした形では映されません。完成形を映さない、ということは当初から決めていたのでしょうか。

ダミアン・マニヴェル そうです。僕はここでダンスを撮影したのではなく、ダンスのなかでなされる彼女たちの身ぶり手ぶりを撮影していたからです。もちろん素材としてはダンスを扱っているわけですが、そこから生まれてくる感情は、映画言語によって生み出されるもの。同じ仕草や身ぶりがカットを替えて何度もくりかえされ、それによって観客の頭のなかにソロダンス「母」ができあがっていく。すべてを見せることなく、観客はダンスが伝えるエモーションを受け取るわけです。第3部でマノンが作り上げたダンスを見せるのではなく、それを見る観客の顔を映し出したのもそのためです。

――つまりこの映画はいわゆるダンス映画ではない、ということでしょうか。

ダミアン・マニヴェル いえいえ、もちろんこれはダンスについての映画です。ただ映画言語によってそれを映した、ということです。つまりここにはクロースアップがあり、編集がある。いわばダンスを映画として翻訳するわけですね。こうした映画言語を用いてダンスを映すこと、それこそがダンスに対する最大のリスペクトになると僕は考えています。

 

――ちなみにマノンとマリカによるダンス「母」は、実際には完成されたのでしょうか?

ダミアン・マニヴェル はい。マノンは劇団に所属しているのですが、撮影が終わったあと、彼女は劇団員たちの前で「母」を踊ってみせたそうです。第2部は3週間の撮影期間がありましたが、実はマノンは、撮影初日にはソロダンス「母」について何も知らなかった。彼女がゼロからそれを身につけていく様子を、我々はドキュメンタリーふうに撮っていったわけです。