『神の嘉(よみ)する結婚 イスラムの規範と現代社会』(八木久美子 著)東京外国語大学出版会

 キリスト教や仏教に比べ、とりわけ日本人には馴染みがないイスラム教。どんな人々がどういう考えを持っているのか想像もつかない――その思い込みを本書は小気味よく崩す。

「イスラム研究というのは、かつて歴史学者の仕事でした。その成果の表れが、たとえば高校の世界史で教わる通り一遍のイスラムの戒律。でもそれだけでは本当のイスラムの姿は見えません。コーランやイスラム法学の研究も重要ではありますが、私としては、生きている人間たちの中でイスラムというものがどう根付いているか、そこが知りたいし、それを伝えたいと思っています。生きているイスラムの一端を読み取っていただけると嬉しいですね」

 宗教学が専門の八木さんはイスラムにおける「結婚」をテーマに選んだ。既婚未婚非婚を問わず、結婚にまつわるあれこれに触れたことのない人はいないだろう。イスラムにも結婚がある。この当たり前の事実で、よそよそしかったイスラムが、ぐっと身近になる。

ADVERTISEMENT

「ひと口にイスラムの結婚といっても、国や地域、民族によって本当に様々です。日本人は、どこかムスリムが凝り固まった宗教観に囚われていると考えがちなのですが、それは大きな間違いです。イスラム法は日本人の感覚でいうと、道徳や常識に近い。そう考えると、地域や時代によって変化するのが自然でしょう? 今回は、多様なイスラム世界の中で、エジプトに暮らすムスリムの結婚について書きました。正直なことを明かすと、私自身が他の国に比べてエジプトに詳しいからですが(笑)、エジプトは本当に面白い国で、日本と似ているところも多いからリアルに感じられると思いますよ」

八木久美子さん

 明治維新と同じころ、アラブ世界でいち早く近代化を目指したのがエジプトだった。挫折も成功も味わいつつ、エジプトが達成した近代化はアラブ諸国にとってモデルケースになっていく。なるほどアジアにおける日本と似た側面がある。

「エジプトの若者たちが、いま結婚できないと嘆いています。かの地で結婚といえば、国家、社会、イスラム法の3つの段階でクリアすべきハードルがあります。日本人からすれば、一番厳しいのはイスラム法だろうと思ってしまいますが、実はそこをクリアすることはそれほど困難ではない。若者にとってイスラムとは基本的な規範なので、それに縛られているとか対抗すべきという感覚はありません。むしろ彼らにとって重荷なのは、社会の圧力でした。それは親族の許可を得ることであったり、根強いコネ社会でいかにサバイブするのかということ。本には具体的な事例も挙げてあります。どうでしょう。日本の若者とさほど変わらないと思いませんか」

 経済事情、親族関係、硬直した法律など日本の結婚にも障害は数多ある。なんのことはない。遠い異国の若者も、日本の若者と同じ悩みを抱えているのだ。

「逆にいえば、イスラムの教えに適っていることは、国家や社会に対抗しうる強い武器になる。コーランにこう書いてあると立証できれば、どんなに偉いイスラム法学者であっても異は唱えません。イスラムとは解釈の教えです。かつて男性のみがコーランの解釈をほしいままにしてきましたが、最近はイスラミック・フェミニズムとも言うべき、女性によるコーランの解釈も生まれています。エジプトで結婚できない若者が増えていることが社会問題化したきっかけは、若い女性薬剤師のブログでした。イスラム世界において、女性の側からの問題提起があることが面白いですよね。イスラムはコチコチではないんです。非常にダイナミックで、いままさに生きているものなんです」

やぎくみこ/1958年、大阪府生まれ。東京外国語大学大学院総合国際学研究院教授。ハーバード大学博士(宗教学)。専攻は宗教学、イスラム研究。著書に『慈悲深き神の食卓』、共著に『世俗化後のグローバル宗教事情』などがある。

神の嘉する結婚 イスラムの規範と現代社会 (Pieria Books)

八木久美子

東京外国語大学出版会

2020年7月30日 発売