炭鉱暴力団の系譜
1Fの成り立ちを証言してくれたのは、引退した元ヤクザである。土建業に転身してもう20年以上経ち、「基本、なまけ者のヤクザは使わない」そうだが、昔なじみに頼まれて仕方なくというケースもあるらしい。双葉町(ふたばまち)と大熊町(おおくままち)にまたがる1Fが建設された当時、彼は中学生だったという。
「みんな仕事がなくってよ、よく集団就職の列車を見送りに行ってさ、そんな時代だったんだ。原発の利権……地域みんなで大賛成って感じだったし、実際にあれこれやったのはうちの親分たちの世代でもうみんな死んじまった。俺らがギリギリだな。若いヤツらは知んねぇだろうな」
どうやら直接利権のやりとりをしたわけではなく、そのおこぼれに与(あず)かったという形である。いまは児童福祉法で逮捕されるため、未成年を組員登録出来ないが、当時は10代で組事務所に出入りする不良たちが多かった。
「いわきは元々常磐(じょうばん)炭鉱があるかんね。ヤクザがいっぱいいたし、青線も繁盛してた」
かつてヤクザの分類に博徒系、的屋系などと並んで、「炭鉱暴力団」という項目が存在していた。昭和30年代の警察資料をみると、はっきりそう書いてあり、全国各地でかなりの勢力だったことが分かる。閉山とともに炭鉱ヤクザは衰退したが、福岡県田川市に本拠を置く指定暴力団・太州(たいしゅう)会はいまも大きな組織力を保持しており、その代表格といっていい。資本家たちは炭鉱労働者をまとめ上げるため地元のヤクザを利用し、親分を代表者として各地に下請け会社を作らせた。暴力というもっとも原始的、かつ、実効性の高い手段は、国策としてのエネルギー政策と常にセットとして存在している。