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 編集やライターの仕事も、クルマの運転が必要な場合がある。だが、毎日現場にクルマで向かっていた記者時代と比べれば、運転の機会は格段と減る。私は、ここがやめどきだと思った。酒を……ということならよかったのだが、やめようと思ったのはクルマの運転のほうである。自分の判断能力に自信がなかったし、若い男性は仕事やプライベートの場面で、なにかと運転を求められる。それを、「もしかしたら酒を飲んでしまうかもしれない」という理由で断るのは難しいと感じた。ならば、いっそのこと運転免許の更新をやめてしまえばいい。酒をやめようとは、つゆ程も思わなかった。

「もう酒に溺れたままでいい」

 飲酒運転のリスクは重々に承知していた。そして、私は自分が飲酒運転しない自信がなかった。偉いんだか、偉くないんだかよくわからない判断だが、結果的には正解だったと思っている。その後、仕事で運転を求められる機会は何度もあったし、友人や仕事仲間とクルマを使って旅行することもあった。

 その間も酒量はますます増え、気がつけば朝から飲むようになっていた。枕元に酒がないと不安で、夜中にふらふらした足取りで酒を買いに行き、飲んで眠って起きたらまた飲んだ。出社の2時間くらい前にシャワーを浴び、酒の臭いを誤魔化して働いていた。しかし、なにせ運転免許を持っていないのだから、運転はできない。そこだけはリスクを回避することができた。

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車を駐車場に止めた瞬間にコンビニに駆け込み、酒を飲むこともあったという ©iStock.com

 もう酒に溺れたままでいいとすら思っていた。なんとかギリギリで折り合いをつけてやっていこう、と。そうこうしているうちに、アルコール性の急性すい炎に二度なり、二度とも入院した。二度目の入院の際、医師からこのままの飲み方をしていると、命に危険を及ぼす可能性があるとして、強く断酒を勧められた。その時、まだ34歳。

 一度目の入院後、節酒を試みて、はじめは成功していたのだが、週1回が週2回になり、また毎日のように飲み出すまで半年もかからなかった。その経験があったため、二度目の入院で断酒を勧告されたときには、すでに悟っていた。もはや、自分がアルコールに敗北したのは明確であるということを。アルコールが、私の手に負える相手ではないということを。

 一度目の急性すい炎の時は、腹部を中心に強烈な痛みが襲い、診療所に行っても胃炎と診断された。処方された薬がまったく効かないので、痛みを散らそうと愚かにも酒を飲んでいた。たまたまその時、医学系の研究者を取材していたのが幸いし、その人から「もう一度、病院に行って検査したほうがいい」と助言されたことで、急性すい炎であることがわかった。それまでの2週間、気絶しそうな痛みにずっと耐えていた。

二度目の入院時には「手に負える相手ではない」と悟っていたという ©iStock.com

 急性すい炎が、あまく見てはいけない病気だということは、インターネットで調べただけでもすぐにわかった。また、父方の家系にアルコール依存症の者が多く、父から「宮崎家の男は、酒に溺れると早死にする」と口すっぱく忠告されていた。酒を控え、健康的な生活を心がけていた父も71歳で亡くなってしまった。なかば人生を投げやりになっていた当時の私でも、40~50代で死んでもいいとはさすがに思わなかった。

 それでも、いつか酒と上手に付き合えるようになると思い込もうとしていたが、それは不可能だった。体だけではなく、精神にも変調が及んでいた。二度目の急性すい炎の時は、痛みの具合ですぐにわかり、入院する用意をしてから病院に向かった。もうやめるしか手がないと、その時はじめて認めた。だから、医者から断酒を勧告された際、これで酒をやめるかどうか悩まなくていいんだ、と妙に安心している自分がいた。