アルコール依存症は「否認の病」
酒は上手に付き合えば、人生を楽しく、豊かにする友人のようなものだ。しかし、友人はいつしか悪友に変わり、自分自身も悪友に手を貸すようになった。アルコール依存症の厄介なところは、なかなか患者が認めたがらない「否認の病」という側面があることだ。
自分は飲み方や量をコントロールできると思い込もうとして、その理由を探したり、時には捏造したりする。自分はアルコール依存症ではなく、ただの酒飲みだという認知にすがろうとする。依存症であることを認めてしまったら、酒を飲むことができなくなるからだ。なので、周囲に隠れて酒を飲むという行動もしばしばする。
また、専門家ではないので個人の考えになってしまうが、どこからが依存症で、どこからが依存症ではないかの境目も曖昧だ。たとえば、依存症ではなくても、「今から死ぬまで、一滴も酒を飲んではいけない」と言われたら、キツいと思う人は多いはずだ。そういう意味では、酒飲みは多かれ少なかれ酒に依存している。つまり一口に依存症と言ってもグラデーションがあり、病的かどうかの判断には、心身の健康や、生活、社会的活動への影響も関わってくる。だから、自分だけで判断するのが難しいのだ。
そして一番厄介なのは、違法薬物などと違って、いつでもどこでも安価に手に入ってしまうことである。酒をやめてから、大卒の初任給でも致死量を買えてしまうことに、改めて驚いた。しかし、アルコールは中枢神経系に作用を及ぼす物質であることも忘れてはいけない。あんなに脳に作用を及ぼす物質を、私の人生経験では酒のほかに知らない。
“アルコール依存症”の日本社会
さらに、酒をやめてから、日本はアルコールを前提として社会が組み立てられている部分があるということにも気が付いた。今はだいぶ変わってきたと思うが、商談などではアルコールを飲めないと不利になる場合が生じることもある。「胸襟を開くため」として、アルコールがまるで儀式のように用いられる。そう考えると、日本社会全体がアルコール依存症にかかっていると言えるのかもしれない、と思うことすらある。
いつ、誰が、どういうタイミングで依存症になるかわからない。そう思っておいたほうが賢明であろう。もちろん、過度な飲酒を避けて、酒を一生楽しむのが一番である。私は、酒の存在を否定はしない。しかし、そのためにもアルコールが決して安全なものではないことを肝に銘じておく必要がある。成人ならば誰でも手に入れられ、また酒を飲むことが社会の習慣に深く根ざしている以上、どんな対策を練っても一定数は常軌からこぼれ落ちてしまうのだ。それが自分でないと、誰が断言できるだろうか。