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「公会堂にやってきた宝塚を見て受けた衝撃」髙田賢三が語った“僕が子どもだった頃”

新・家の履歴書――髙田賢三(ファッション・デザイナー)#1

2020/10/08

source : 週刊文春 2017年5月4日・11日号

genre : ライフ, ライフスタイル, アート, 社会

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小2で衝撃を受けた宝塚の舞台

髙田 内気な子どもで、年が離れた兄たちには相手にされず、遊び相手は姉たちでした。小学2年のとき、姉に連れられて姫路市公会堂にやってきた宝塚を観たんです。乙羽信子さんの『南の哀愁』。まあ、なんと綺麗なものがあるのかと衝撃でした。当時の明石照子さんも本当に素敵で。まさか50年後に、自分が宝塚の衣裳を手がけることになるとは(笑)。姉や祖母に連れられて、映画もよく観ました。初めての洋画は、マーガレット・オブライエンやジューン・アリソンが出ていた『若草物語』。洋風の生活に憧れ、ベッドのつもりで押し入れに布団を敷いて寝てましたね。

 姉たちが読んでいた『それいゆ』や『ひまわり』にも、影響を受けています。中原淳一さんのスタイル画を見て真似たのが、絵を描くようになったきっかけ。雑誌に載っている人形の作り方を読み、中学の夏休みには毛糸や針金でいろいろな人形を作りました。興味があったことは自然と身についたんでしょう。着物のことなんか、先生より、僕の方が知識はありました。

©文藝春秋

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 学業は優秀。学級長も務めた小中時代を経て、県内有数の進学校、姫路西高へ。

会社を2カ月足らずで退社し、姫路駅を発った18歳の秋

髙田 最初の中間テストは後ろから数えたほうが早くて、ショックでした。負けず嫌いだから、入った美術部もやめて猛勉強。卒業後の志望は美大で、先生にも芸大を勧められたけれど、父が糖尿病で臥せっていて他の家族も病人が多く、うちの経済状態では無理だと子供心にもわかりました。姉が通う須磨の洋裁学校に行きたかったのですが、当時の洋裁学校は男子禁制でした。それで家から通える神戸外大の夜学に入り、昼間は義姉のお兄さんの紹介で神戸の貿易会社で働き出したんです。

 ところが、そこは玩具を輸出する会社で仕事は荷造りとお使い。朝は早いし、仕事が終わって学校へ行き、また姫路に帰る生活は辛くてねえ。

 そんなとき、通勤電車の中で目に飛び込んできたのが、グラフ誌の吊り広告「文化服装学院に男子学生入学」の記事。会社を2カ月足らずで退社し、夏休みに豆腐屋でバイトして上京資金をためた。18の秋、鈍行で姫路駅を発った。