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「公会堂にやってきた宝塚を見て受けた衝撃」髙田賢三が語った“僕が子どもだった頃”

新・家の履歴書――髙田賢三(ファッション・デザイナー)#1

2020/10/08

source : 週刊文春 2017年5月4日・11日号

genre : ライフ, ライフスタイル, アート, 社会

文化服装学院師範科に入学

髙田 着替えだけを持ち、予備校に通う西高時代の親友の若松町の下宿に転がり込みました。1週間後、都電若松町駅近くの「三島看板店」に住み込みの職を見つけ、仕事部屋手前の三畳間をカーテンで仕切った部屋で寝起きしました。賄い付きで月給3000円。仕事はペンキの下塗りでしたけど、手はペンキだらけになるし、冬になると寒くって、なんで東京に出てきたのかなと侘しかった。それでも、あのときは前向き思考で、挿絵の通信教育を受け、神泉にあった隅田房子スタイル画研究所に週2回通ってましたよ。

 58年、文化服装学院師範科に入学。男子学生は、240人中40人。同じクラスにニコルの松田光弘さんが、隣のクラスにはピンクハウスの金子功さん、マドモアゼルノンノンの荒牧太郎さんがいた。母から月8000円の仕送りが届くようになった頃、父が死去。

©文藝春秋

コシノジュンコの絵を見て感じた不安

髙田 文化に入ってすぐ、同じクラスの男子学生5人で、学校の前にあった新宿の紳士服屋の2階の下宿を2部屋借りました。ご飯は文化の学食で食べられたけれど、狭い下宿でみんなが麻雀をするのが嫌で嫌で。半年我慢して、幡ヶ谷の三畳部屋へ引っ越しました。

 師範科は洋裁の基礎を学ぶところですが、僕は縫えないから面白くなくてね。最初に縫ったのがブラジャーで、卒業作品が学生服。つまんないでしょ。でも翌年デザイン科に入ると、先生はイブ・サンローランと机を並べたパリ帰りの小池千枝先生。カッコよかったし、授業も楽しくて。

 クラスには、(コシノ)ジュンコもいました。デザイナーになるために生まれたようなユニークな彼女の絵を見たときは、上京してきた品川駅で、「こんな大勢の人の中で生きていけるのか」と感じた不安が蘇ってきたんですよ。彼女は“六本木野獣会”に入っていて、交友関係も華やかで。僕はまだ学生服を着てたから、ジュンコは今でも昔の僕のことを「黒縁眼鏡で学生服で下駄だった」と言います。下駄は履いてないけど、そういうイメージだったんですね。憧れのスーツを初めて作ったのは、新宿の下宿先だった紳士服屋でした。

#2へ続く)

たかだけんぞう/1939(昭和14)年、兵庫県生まれ。文化服装学院デザイン科卒業。60年に装苑賞を受賞。65年に渡仏。70年、パリにブティック「ジャングル・ジャップ」をオープンし、同年パリ・プレタポルテ・コレクションにデビュー。70年代のファッション界に多大な影響を与えた。

 (取材・構成:島﨑今日子)

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