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「もう年だし、いつまで続けられるかな」髙田賢三が語っていた若い人への想い

新・家の履歴書――髙田賢三(ファッション・デザイナー)#2

2020/10/08

source : 週刊文春 2017年5月4日・11日号

genre : ライフ, ライフスタイル, アート, 社会

note

 ブランド「KENZO(ケンゾー)」の創設者である髙田賢三氏が、4日、新型コロナウイルスの合併症によりパリ郊外の病院で亡くなった。81歳だった。

 世界的ファッションデザイナーとして活躍した自身の原点について、髙田氏は「週刊文春」2017年5月4日・11日号で語っていた。追悼の意を込め、当時の記事を特別に全文公開する。なお、記事中の年齢、日付、肩書などは掲載時のまま。(全2回の2回目、#1より続く)

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「装苑賞」でグランプリ受賞

 デザイン科2年目の60年秋、新人デザイナーの登竜門である「装苑賞」でグランプリに輝く。史上最年少受賞のコシノジュンコさんに続き、同期では二人目。以来、創刊ラッシュの雑誌から仕事が舞い込む。翌年、初任給1万5000円で、松田光弘さんと浅草橋のアパレル会社へ就職。

髙田 その頃はプレタポルテ(高級既製服)なんかなくて、雑誌はデザイナーに服を作ってもらい写真を載せ、後ろに作り方と型紙をつけていた。僕も多いときは月に2、30点作ってました。

 就職して1年で、松田君と一緒に銀座にある三愛の企画室に移ったんです。当時、銀座は最先端の街でしたから。「週刊平凡」や「若い女性」の仕事をやらせてもらって経済的に余裕ができたので、六本木のマンションに引っ越しました。家賃2万5000円で給料より相当高かったけど、シャワーと台所とトイレがあって、嬉しかったなぁ。VANのアイビールックを着て、夜遊びも楽しんでましたね。

髙田賢三氏 ©文藝春秋

 東京オリンピック直後の64年11月、新婚旅行の松田夫妻と憧れのパリへ。

パリで仕事を探すも……

髙田 その年はジュンコたちもパリに出かけたので、行きたくて行きたくて。でも、行けるとは思ってなかったのに、マンションが改築になり、立ち退き料として家賃10カ月分の25万円が入ってきたんです。三愛に半年間の休職願いを出し、小池先生に「行くなら絶対船で」と言われたので、地球を半周する船旅にしました。数々の経由地で見た民族衣裳の美しさに、どんなに触発されたか。僕の財産です。

 三愛の紹介で、パリに着いた当初は観光しながら、ディオールやカルダン、シャネルなどのショーを見て回りました。まだココ・シャネルが生きていて、お店の階段に座っていた。オートクチュールなんて見たことないから、僕も松田君も驚いて「こんな洋服一生かかっても作れない」と話したこと、覚えてますよ。

 2カ月後に松田夫妻が帰国したので、カルチェラタンのホテルから、クリシー広場の安ホテルに移りました。風呂場を改装した1日9フランの宿。どこかで仕事したいと思っていたんですよね。でも、誰に聞いても「日本人はフランスではデザインできない」と言われた。フランス語を習っていたアリアンス・フランセーズでバイトを探すと、犬のシャンプーとか猫の世話しかない。毎日シャンゼリゼまで歩いて、スナップ写真を撮って「週刊平凡」に送った他はなんにもやらなかった。

 でも帰国が迫った5月、旅の恥はかき捨てという気持ちになり、バーッとデザイン画を描いたんです。そのとき描いた画は、今見ても生き生きしている。それを、大好きだったルイ・フェローの店に持って行くと、見せるだけのつもりだったのにマダムが1枚25フランで買ってくれた。その夜、レストランでお祝いしましたよ。

 翌日に行ったファッション誌「エル」では、1枚50フランの値がついた。10日後にはワンピースメーカーと月給1000フランの契約が決まり、滞在許可証や労働許可証まで取得。半年後、スカウトされ「ラシオン・テキスチイル」へ。