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「もう年だし、いつまで続けられるかな」髙田賢三が語っていた若い人への想い

新・家の履歴書――髙田賢三(ファッション・デザイナー)#2

2020/10/08

source : 週刊文春 2017年5月4日・11日号

genre : ライフ, ライフスタイル, アート, 社会

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ミック・ジャガー、アンディ・ウォーホル……パリのクラブで広がった人脈

髙田 そこのマダムに、アパートを紹介してもらいました。ベッドと洗面台しかない部屋からいきなり客間、居間、寝室に風呂、トイレ、バルコニーまでついた部屋に移った。紹介なしに入れないパリ一のクラブ、キャステルにも通い始められて、ついていましたね。70年代になってからディスコのセットやナイトクラブのパラス等ができ、ゲイカルチャーの拠点で、流行の発信地になっていった。ミック・ジャガーやアンディ・ウォーホルらも出入りしていて、人脈も広がっていきました。僕はミニクーパーを買い、服はレノマで揃えて。

 その頃、ジュンコや松田ら文化の同窓生たちが、日本でお店を始めていました。僕がライバル心を燃やしていると、69年の12月、蚤の市を歩いていたら、知り合いのマダムに「自分のところでお店やらない?」と声をかけられた。グサッと心にきました。

 ルーブル美術館そばのアーケードに「ジャングル・ジャップ」を開いたのは、70年の4月です。狭い店でしたがお金はかけられないので、アンリ・ルソーの「ジャングルの夢」を真似て、文化からの仲間たちと徹夜でペンキを塗ったりしたんですよ。楽しかったなぁ。

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©文藝春秋

東西を融合させたケンゾー・モード

 それまでの僕の作る服は、毎シーズンの流行に沿って自分なりに作ったものでした。でも、店を始めるにあたり初めて自分のアイデンティティを考えた。日本土産のようなものになったら嫌だなと思ったけれど、やっぱり日本のものを使うのが面白いのではと。それで最初のショーを開くとき、帰国して、染め見本や浴衣の生地や踊りの衣裳をいっぱい買い込み、蚤の市で買ったリボンとかと合わせて、服を作ったんです。資金は、母や荒牧太郎さんら5人から100万ずつ貸してもらった。

 当時のパリって、プリントものがなかったから、そこに派手な芍薬(しゃくやく)の着物地をパッチワークした服が出てきたら、それは珍しいですよ。着物のような直線的なカットも、新鮮だったんでしょうねえ。

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 東西を融合させたケンゾー・モードはパリっ子の喝采を浴び、トレンドを生み出した。消費文化が一気に花開いた時代、ファッション界もプレタ全盛へ。37歳のときピカソの娘の誕生日会で、生涯のパートナー、グザビエ氏と出会う。