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「もう年だし、いつまで続けられるかな」髙田賢三が語っていた若い人への想い

新・家の履歴書――髙田賢三(ファッション・デザイナー)#2

2020/10/08

source : 週刊文春 2017年5月4日・11日号

genre : ライフ, ライフスタイル, アート, 社会

note

「会社はどんどん大きくなっていったけど…」

髙田 70年代は、自分の好きな服を作りながら人気が出て、面白かったです。ただ人も増えてくるし、経営は無茶苦茶だったので、月末になると給料を払うために、バイトでニットの仕事をしたり……。パリにいらした西武百貨店の堤邦子さんには、何回も借金を頼みに行きました。せっかく引っ越したアパートも、家賃が払えなくて追い出された。

 グザビエが紹介してくれた新しい共同経営者が来た80年以降、会社はどんどん大きくなっていきました。でも、時代も自分も変わっていき、僕にとっては厳しかったですね。雑誌に載せてもらうために売る服だけでショーをやるようになったのに、ジャーナリズムからは「ショーだけのための服があってもいい」と言われたりもしました。

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 パリ市内で10回以上の引っ越しを経て、81年、16区に庭付き一軒家を借りる。87年、バスチーユ広場近くに数寄屋風の大規模な新居を着工。床面積1500平方メートル、日本庭園の中庭や茶室もある、美術館のような家だ。

イラストレーション:市川興一

グザビエと二人で買った家

髙田 パリの中心で暮らしたいと思っていたら、グザビエが絶好の場所を見つけてきたんです。当初は僕だけの家の予定だったのに、やっているうちにノッてきて1区画全部の建物を二人で買い取りました。グザビエが病気になるという苦しい中で工事を始めたんです。理想はどんどん高くなり、工事費も3倍、4倍と膨れ上がっていきました。

 台所もできていないうちに、竣工パーティーを開いたのが、90年の2月。僕の誕生日に日本部屋ができ、鍵をもらったんです。工事現場のような家で暮らし始めたのですが、半年もせずグザビエが亡くなった。まだ37歳でした。一人じゃ大きすぎたけれど、とにかく終わらせようと。完成するまで、そこから3年近くかかりました。

 グザビエ氏を失った翌年、仕事上の右腕、パタンナーの近藤淳子さんが脳梗塞で倒れ、母が死去。93年、ケンゾー社は仏モエヘネシー・ルイヴィトンの傘下に。99年、60歳で「ケンゾー」のデザイナーを引退した。アテネ五輪のユニフォームを手がけた2004年には、企画会社を立ち上げたが――。

髙田 僕、経営感覚が全くなくて、あるお金は全部使ってしまうので、会社は倒産。そのとき、家もバスキアのコレクションも手放しました。今はサンジェルマンに、300平米のアパートを借りて住んでいます。

 昨年、膵炎で一命をとりとめたんですよ。その後、エイボンやセブン&アイと組み、再び仕事を始めました。ファッションは大好きですが、毎シーズンやり続けないと難しいし、年だし、いつまで続けられるかな。これからは若い人の力になり、日本を再発見したいと次の目標を探しています。もう52年もパリにいるので、そろそろ日本に住みたいですね。

©文藝春秋

たかだけんぞう/1939(昭和14)年、兵庫県生まれ。文化服装学院デザイン科卒業。60年に装苑賞を受賞。65年に渡仏。70年、パリにブティック「ジャングル・ジャップ」をオープンし、同年パリ・プレタポルテ・コレクションにデビュー。70年代のファッション界に多大な影響を与えた。

 (取材・構成:島﨑今日子)

「もう年だし、いつまで続けられるかな」髙田賢三が語っていた若い人への想い

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