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「公会堂にやってきた宝塚を見て受けた衝撃」髙田賢三が語った“僕が子どもだった頃”

新・家の履歴書――髙田賢三(ファッション・デザイナー)#1

2020/10/08

source : 週刊文春 2017年5月4日・11日号

genre : ライフ, ライフスタイル, アート, 社会

 世界的ファッションデザイナーで、ブランド「KENZO(ケンゾー)」の創設者である髙田賢三氏が、4日、新型コロナウイルスの合併症によりパリ郊外の病院で亡くなった。81歳の訃報に、日本だけでなく世界に衝撃が走っている。

 フランスの芸術文化勲章を受けるなど世界で活躍した自身の原点について、髙田氏は「週刊文春」2017年5月4日・11日号で語っていた。追悼の意を込め、当時の記事を特別に全文公開する。なお、記事中の年齢、日付、肩書などは掲載時のまま。(全2回の1回目、#2へ続く)

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最初の記憶は「着物や毛糸玉で遊んでいたこと」

髙田 姫路の生家は、玄関の横に箪笥が置いてある部屋があって、着物や毛糸玉がたくさんありました。そこで遊んでいたのが最初の記憶。お袋は着物の好きな人でしたけど、洋服は近所の洋装店で仕立てていて、自分は作ってもらえないのに、一緒についていくのが好きでしたね。

 70年代にファッション界の潮流を変えた世界的なデザイナー・髙田賢三さん。実家は、姫路城を仰ぎ見る梅ヶ枝町で待合「浪花楼」を営んでおり、7人きょうだいの5番目、三男として、戦争前夜の1939年に生まれた。

髙田賢三氏 ©文藝春秋

髙田 父は地元の電力会社に勤めていたのに、脱サラで待合を始めたんです。ブラジルへの移民を夢みたこともあったようで、骨董や謡が好きな趣味人でした。無口な人でしたから僕には怖い存在で、お袋と喧嘩すると、子どもたちはみなお袋の味方。お袋はしっかり者の社交家でした。

 家は、商売の場所と家族の住まいが分かれてましたけど、従業員もいたので部屋数は15ぐらい。中庭に、小さな池や離れもありましたね。戦争が激しくなってきたある日、裏庭に父が穴を掘り、家財をいれた大きな火鉢を二つ埋めていた。僕は入学したばかりの小学校を転校して、姉たちと一緒に母の実家がある兵庫県甘地(現・市川町)に疎開するんですが、お母さん子だったので、病気になっちゃった。数カ月離れていただけなのにねえ。

 二度の姫路大空襲のあと、敗戦を迎える。家族は無事だったが、実家は焼失。庭に埋めた家財を掘り返し、父は近くに家を買った。数年後、梅ヶ枝町で「浪花楼」が再開された。