震災前の最盛期に伊藤は、この地で居酒屋・キャバクラ・ヘルス・デリヘル・レンタルルーム・風俗案内所など36店舗を経営。年商7億の風俗グループを一代で築く。
地元警察から“郡山の風俗王”の愛称で呼ばれ、夜の郡山では知らぬ者はいないほどの地位を得ていたものの、件の震災賠償詐欺に引っかかり組織は崩壊。いまは規模を縮小して古びた雑居ビルの一室で、ピンサロ「写楽」1軒だけを細々と営んでいる。
「けれども私は、東電にはある意味で助けられているんだよね。騙されたにせよ結局、カネが入って急場を凌げたでしょう。実は迂闊にも賠償話に手を出してしまった2年前は、震災後の復興特需が落ち着き、ちょうど会社の売り上げが3割ほど落ち込んだ時期でした。
その直後に東電から返還要求されて、その時は頭を抱えたけど、2年が過ぎて新型コロナで震災以上の打撃を食らった。もし、あのまま250人の従業員を抱えていたら、私はもちろんみんなも路頭に迷わせていたかもしれないと思うんです」
僕は主に性風俗関連の事件を取材するライターだ。そんな伊藤の話に耳を傾けるうち、次第に興味は伊藤の半生へと移ったのである。
「やはりヒトを売らなくては。それもオンナを」
「風俗業界に入ったのは意外に遅くて、46歳。いろんな事業で失敗し、完全に無収入になってしまった。それで郡山の自宅を出るしかなくて。それで記憶を辿り、知り合いだった福島市内のピンサロの社長を訪ねたら、運良く拾って貰えたんです」
伊藤は郡山で生まれた。東京の私立大学を卒業し、食品メーカーに就職。30歳手前になると営業課長になり、100人余りの女性営業部員を束ね、将来を有望視されるなど順風満帆の社会人生活を送っていたが、起業を思い立ち7年勤めた会社を退職する。
引き金は、25歳の伊藤を突如として襲った胃癌だった。幸い手術は成功し、カラダは快復したが、医者から「5年生きられれば……」と余命宣告までされたと話す。
「〈たった一人の自分をほんとにいかさなかったら、人間生まれてきた甲斐がないではないか〉。ガン克服後、たまたま私の尊敬する専務が黒板にこう書いたわけ。そのとき、自分の人生は一度きりしかないと悟ったんです」
もちろん、開業資金もなければ具体的なビジネスプランもない。とりあえず保険会社に2年勤め、退職後はその代理店として独立するが鳴かず飛ばず。当時はそれと並行して、ワープロの代理店から下着の訪問販売、便利屋、家を担保に原資を作りヤミ金まがいの車を担保とした高利貸しまで、カネになれば何でも手を出した。
しかし、全てが失敗。利幅が大きく唯一、順調だった金貸しも、奥さんや子供の前で脅しながら返済を迫るのが肌に合わず足を洗った。
そのとき、「モノを右から左に売っていてもダメだ。やはりヒトを売らなくては。それもオンナを」と悟ったという。それは、かつて食品会社の営業所で、100人の女性部員を束ねていた経験からだった。