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 ワケも分からず見切り発車し、福島市周囲にある飲食店や自衛隊駐屯地にオープンを知らせるチラシ持参で挨拶に回り、繁華街の至るところにステカン(捨て看板)を建てた。

 資金の500万は社長がポンと出してくれた。これをタネ銭に福島駅からほど近い古びたマンションの一室に間仕切りして、5部屋を用意。程なく集まった韓国人女性5人は、社長の知り合いヅテで福島中から引っ張った。

郡山の歓楽街の街並み(2008年9月、著者撮影)

 下準備のおかげか、毎日50人以上の客が押し寄せる。システムは60分1万円で、半分は店の実入りになるが、社長から借りた500万を返済するまで給与はギリギリ生活できるだけだった。寝床は店の隣に借りたもう一部屋でエステ嬢たちと雑魚寝。この生活を続けながらカネを貯め、1年後には独立する、ハズだった。

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「伊藤さん、そろそろヤメようか」

 思いもかけぬ社長の言葉で3ヶ月後、店を急遽畳むことになった。

「このまま続けたらパクられるかもしれない。こういう店は、パッと稼いでパッと逃げるのが正解だから」

「捕まってもいいや、くらいの気持ちがあった」

 社長は、警察の内偵を鑑みると3ヶ月がリミットだと説明した。

「いま考えれば名義人、単なるパクられ要員だった。違法ですからね、無許可で営業しているのにヌキがあるんだから。当時の私はそれが分からなくて、毎日飯代くらいしか貰えていなかったところ、やっと3ヶ月目からマトモな給与を取れる段取りをしていた矢先の出来事だったから。もちろん社長は身を案じてくれてのことなんだろうけど、私としては捕まってもいいや、くらいの気持ちがあったから、それはもう悔しくて、悔しくて」

郡山の街に立つ伊藤氏(著者撮影)

 この一件で、伊藤は意気消沈して社長の元を去り、福島市から郡山に戻ることになった。

(文中敬称略、後編に続く)

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