「その頃ちょうど“バブル”が弾けた。実は競合他社とコンパニオンの組合を作り、私はその会長でした。飲食店組合や理容組合と同じで県に認定された組合です。認知されるには『組合を作った方がいい』と取引先の旅館のオーナーさんに言われ、先々を読んでのことだったのに、会長という立場上、他社から仕事を奪うような新規開拓の営業が出来ずに身動きが取れなくなってしまったんです」
伊藤は悩んだ。バブル崩壊で売り上げは下がっている。その打開策であるはずの新規営業もままならない。
もちろん、いまのままでも十分、暮らしてはいける。惰性で続けて状況の変化を待つのもアリなのか。
そして伊藤は腹を括る。
「最終的には将来性がないと判断しました。それにもうやりたくなかった。あくまで下請けだから、連日、旅館ホテルに頭下げっぱなし。やれオンナが来ない、やれ人数が足りないとクレームの嵐。ずっと溜まって膨らみ続けていた怒りの風船が、バブルと同時に割れちゃったの」
伊藤は年商3億円のコンパニオン事業を後進に譲り、自分は無収入になる道を選んだ。忘れもしないバブル崩壊直後の1993年、43歳の時だった。
「ピンサロじゃなく福島初の韓国エステをやれ」
伊藤が風俗の道に入るのは、その3年後。当時の妻にも捨てられ、郡山から出るしかなくなり、コンパニオンの派遣業時代に知り合った福島市内のピンサロ『キャンパス7』の社長を訪ねたのがきっかけだ。
ピンサロはおろかフーゾクですら遊んだことがなかった伊藤だが、過去にコンパニオンの派遣業でボロ儲けした経験から、地方の店舗型風俗店などたかがしれていると考えていた。
「ところが30席ほどある店内は満席で、さらにあぶれた客が雑居ビルの階段の踊り場まで並んでいたんだよね。聞けば1日の売り上げが180万。こっちは200人の女のコを回して繁忙期でも1日200万でしょ。それが毎日毎日続いてるっていうんだから。
そのとき、驚いたのと同時に、なぜか私もできるなって勝手に思っちゃった。なにせ女のコの扱いだけは自信があった。100人の女性部員を束ねていた時代からずっとやってきたわけだから」
もちろんオンナを集めるルートなどない。あるのは妙な自信だけだった。
「すると社長が、『ピンサロじゃなく福島初の韓国エステをやれ』って言うの。エステといってももちろん、マッサージだけでなく手で射精を補助する手コキ・サービス付きの店舗型風俗店。それを韓国人女性でやるんだ、と」