「ワシもやられっぱなしで辛抱できん」
2回目はケンカの張本人である相手方の大石組幹部・東陽一郎を私が殴り、追いかけていったところを東の若い者にバットでフルスイングされたのだ。
私は姫路赤十字病院に担ぎ込まれた。集中治療室から奇跡的に生還すると、すでに古川組と大石組のあいだで話がついていた。
しかし、そんな「やられっぱなし」の話し合いには到底納得できず、私は退院してすぐに笹部に思いを伝えた。このころは笹部も竹中組を離れ、西脇組の舎弟になっていた。
「ワシもやられっぱなしで辛抱できん。そない竹垣が言ってると西脇のオッサンに伝えてくれ」
そう言うと、笹部は快く引き受け、しばらくして西脇組組長で阪神ブロック長である西脇和美の返事を持ってきてくれた。
「会長(私のことである)、言うたで。西脇は『そんなら古川(雅章)さんも、なんで竹垣が入院してるから退院するまで待ってくれと言わなんだやろ。いまさらそんなこと言うと、当時の執行部がみんなヘタ打つがな』という答えやった」
西脇の言にも一理あると思い、私は「悪かったなあ」と礼を言い、話を引いた。
笹部との信頼関係
このような無理な頼みごとができたのも、笹部と私とのあいだに信頼関係があったからだ。
笹部が竹中組で若頭を務めていたころの話であるが、組のことでカネが必要になり、武組長にカネを借りたことがあった。その追い込みを「姫路事件」で20年服役して帰ってきたばかりの高山一夫にさせ、西脇組事務所までわざわざとりに行かせたと聞いたので、私は武組長に諫言したことがある。
「貸したカネをとりに行かせたら、その時点で親分子分の縁は切れまっせ。そんなこと、親分ほどの人がしたらあきまへんがな」
そのことを笹部はずっと恩義に感じ、私のために骨を折ってくれたのだ。
義を見てせざるは勇無きなり。
笹部も正久親分の薫陶を受けたひとりなのである。