チャカの行方
私が竹中組の直参になった翌年の1980年1月10日、「津山事件」が起きた。この報復に動いたことで、私は5年の懲役を勤めることになるのだが(量刑には忠成会の組員を半殺しにした殺人未遂事件も含まれるが仔細についてはさておく)、そのとき使った道具(チャカ)の処分をめぐり、笹部とひと悶着起きてしまった。
津山事件とは竹中組直参だった小椋義政が木下会系平岡組組員2名に射殺された事件で、のちの「姫路事件」の原因にもなった事件である。
トラブルの発端になったのは愛人問題で、小椋が短期の懲役に行っているあいだに平岡組の組員が小椋の女に手を出したのである。
この件で激昂した小椋は平岡組組員を恐喝し始めた。相手がいくら謝罪しても小椋は受け入れず、逆ギレした組員によって射殺されたのだった。
女を寝取ったうえに逆ギレするという理由もひどいが、直参が殺られて黙っている竹中組ではない。
「今日起きたことは今日中に報復をせなあかん。せやから、どこでもいいから殺(や)れ」
当時、若頭補佐だった大西康雄の言葉もあり、私は事件の起きた夜、竹中組内平尾組・舎弟の高山一夫ら4人で姫路・白鷺町にあった木下会・高山雅裕会長の愛人宅に向かった。
このとき道具を用意したのが笹部組副組長の小島誠二である。
「兄貴がこれで行ってこい言うんや」
「よっしゃわかった。ほな、わしが行ったる」
私は小島の差し出したスミス&ウェッソン38口径を手にとり、愛人宅の呼び鈴を押し続けた。ドアスコープをのぞくと、わずかに人の気配がしたので、ドア目がけて拳銃を乱射した。
それを合図にほかの者もいっせいに引き金を引いた。のちに聞いた話ではドアには全部で十数発の弾痕が残されていたそうである。しかし、ドアには防弾加工が施されていたようで、銃弾はすべて跳ね返されてしまった。
弾を撃ち尽くすと、襲撃班はただちにその場を立ち去った。大西に報告を入れると「道具を始末して、とにかく東に走れ」と言うので、着ている服をすべて着替え、入念に手を洗い、車で大阪に向かった。
手洗いや着替えをしたのは検問で硝煙反応が出るのを防ぐためである。その途上で姫路市街の西を流れる夢前川(ゆめさきがわ)に道具を投げ捨てた。
「ホンマにほかしたんやったら、とってこんかい」
ところが後日、これが問題になってしまう。道具の持ち主である笹部が「拾ってこい」とムチャを言い出したのである。
「ホンマにほかしたんやったら、とってこんかい」
事件のあった昭和50年代、道具はいまのように誰でも簡単に手に入る代物ではなく、また貴重品であった。笹部の言い分もわかるが、証拠を残せば体を持っていかれることにもなる。そこは私も譲れない。
「そやかて、寒くて川なんか入れまへんがな」
「そんなもん、潜水服でもなんでも用意せんかい」
「潜水服なんてどこにあるんや。それやったら自分で行けや」
笹部は先輩であり普段は私も立てていたが、必要とあれば上に対してもはっきりものを言う。それは私の哲学でもある。