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「各組から何人か若い衆を出して、ワシに10人持たせてくれへんか」

 たとえば「山一抗争」終結後、離脱した竹中組と山口組のあいだで起きた「山竹抗争」で「一方的にやられるばかりでは辛抱できん」と真っ先に声を上げたのは笹部であった。

「山竹抗争」は当代を殺された竹中組があべこべに山口組に攻撃されるという悲劇としかいいようのない抗争であった。

 山一抗争終結の仲裁に入った稲川会や会津小鉄の手前、執拗に一和会会長・山本広の命を狙い続ける竹中組を山口組は全力で抑える必要があったとされるが、裏に「竹中組排除」を目論む宅見勝若頭の思惑があったともいわれている。

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「各組から何人か若い衆を出して、ワシに10人持たせてくれへんか。それやったら、ワシが戦闘部隊の指揮をとって、きっちりやったる」

©iStock.com

 1989年8月に開かれた緊急幹部会で笹部は息巻いた。この前月の3日に岡山市の竹中組事務所に銃弾が撃ち込まれ、翌4日には姫路で2代目牛尾組組員が病院帰りに足を撃たれるなど山口組による襲撃事件が相次いでいた。

「よし、そんならウチは3人出したる。指揮はワシがとるがな」

 すかさず呼応したのが当時、若頭補佐の私である。

「ほうか。ほな、ワシは総指揮に回るわ」

 体をかけてでも山口組と対抗しようという気迫を笹部は持っていたのだ。しかし、竹中組の士気は上がらず、戦闘部隊の話は立ち消えになってしまった。

兄・正久親分が当代を務めた山口組に「弓は引けない」

 じつはこの幹部会が開かれていた日、会場になっていた大西組事務所と笹部組事務所にも山口組から銃弾が撃ち込まれるという騒ぎが起きた。当番の組員から電話で報告を受けた笹部は「ただのガラス割りや。屁のツッパリにもならへんわ」と豪快に笑っていたのを覚えている。銃撃を受けた一方の大西康雄若頭は豪気に魚町に飲みに出てしまった。

 その後も山口組による竹中組への猛攻は続いたが、武組長は報復をいっさい行っていない。

 これには兄・正久親分が当代を務めた山口組に「弓は引けない」という強い意志があったとされる。

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 だが、私をはじめ組員のなかには「『竹菱』(山口組を離脱後に竹中組が使用した「菱」に「竹」の字をあしらった代紋)では『菱』に対抗できないのか」と悔しい思いをしていた者も少なくなかった。

 この幹部会があった8月23日を最後に笹部や大西、そして私も竹中組を去る決断をしている。

 イケイケな半面、笹部は信義に厚い男でもある。

 古川組に在籍しているとき、私は大石組の組員にバットで殴られて生死をさまよったことが2回ある。1度目は私のかわいい若い者が騙し討ちに遭い、コテンパンにやられたことで、その報復に日本刀を持って大石組系牧組事務所に殴り込みに行ったところ、待ち構えていた組員に後ろから襲撃されたのである。