山口組が割れてすでに5年になる。「山口組」、「神戸山口組」、「任侠山口組(現・絆會)」と3団体の分裂状態はいまも続き、これは「山一抗争」の4年8カ月を上回る。令和を迎えて、侠客と呼べるやくざはいるのだろうか。昭和40年代、竹中組に集まった血気にはやる男たちについて、元山口組系組長の竹垣悟氏の著書『山口組ぶっちゃけ話 私が出会った侠客たち』より一部を抜粋して紹介する。(全2回の2回目。#1を読む)

左端が私、2人目が大西康雄、4人目が坂本義一、右端が笹部静雄。大西と笹部は平尾光とともに「竹中組三羽烏」と呼ばれ、猛者揃いの竹中組の中にあって、特に恐れられた。 提供:竹垣悟

竹中組の重戦車・笹部静男

 私が渡世入りした昭和40年代の竹中組は、いうなれば狼たちが集う群れのようなものであった。

 播州中の荒くれどもが集まり、そのなかでさらに強い者は誰かとシノギを削り合うのである。彼らに比べれば、私など狼の群れに迷い込んだ羊も同然である。

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 だが、そのような羊でさえ、いったん群れのなかに入れば狼に変わってしまう。竹中組とは、そんな狼を育てる養成所でもあった。

 そのころ、組には平尾光(ひろし)、笹部静男、大西康雄という「竹中組の三羽烏」と恐れられた猛者たちがいた。ここでは3人の侠たちについて書こう。

 笹部静男は狼集団の竹中組のなかでも1、2を争う狂犬であった。竹中組の初期のメンバーである笹井啓三が連れてきた男で、のちに竹中正久親分の最後の若頭となり、竹中武組長の代では総本部長に就任している。

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 ポパイのような頑丈な体つきをしていて、三度の飯よりとにかくケンカが好き。目が合っただけでもケンカの種にされてしまうから、街の不良も笹部が通るときは下を向いて歩くほどだった。

 一度、姫路競馬場で笹部が暴れる姿を見たことがあるが、3人の警察官が取り押さえるのを引きずって歩き、「むおぉぉー」と体を伸ばすと、みんなどこかに吹き飛んでしまった。まるで重戦車のような男であった。

 笹部は若衆時代に初代若頭の坪田英和を殴るという武勇伝も持っている。

 自分たちの若頭を殴るというのは、やくざとしてはあってはならないことであるが、坪田はみんなに嫌われていたので、このときはほかの組員も加勢してケチョンケチョンにしてしまった。

 おかげで正久親分に「コラ、坪田を若頭にしたのはワシや。坪田を殴るいうことはワシを殴るのと一緒やど」と大目玉を食らうハメになってしまった。

 イケイケの笹部は私ともウマが合った。とくに組の方針や竹中組のあり方などについて意見が一致する部分が多かった。