男色が大流行した江戸時代
ちなみに江戸時代は、男性同性愛が大流行した時代でもあった。正確にいえば、男色が少しも奇特なものと扱われていなかったのだという(注19)。
もちろん男性同性愛は、江戸時代に始まったわけではない。平安貴族の日記にはたびたび記述が見られ、中には天皇がセックス目的で美しい少年を雇っていたという記述まで登場する(注20)。また天皇が愛情表現として、寵愛する男を高い位に任命するということもあった(注21)。その後も、武士と寺院の中では男色文化が発展したことが知られている。
江戸時代になる頃には、男色は一大セックス産業として開花していた。都市部を中心として、経済的ミドルクラスが台頭することで、セックスの巨大市場が生まれたのだ。
江戸、京都、大坂の3都のみならず、名古屋や仙台など数十の都市や宿場町で男が買えた。また男色を扱った出版物も次々と発行されている。
ただし、男性だけが好きな男性が多かったというよりも、男性とも女性ともセックスをする男性が多かったというのが実情のようだ。17世紀のベストセラー作家である井原西鶴は、作中の人物に「男色、女色のへだてはなきもの」と言わせている。性的関係において、男女は関係ないというのだ(注22)。
現実社会においても、男色は結婚の妨げにはならなかった。将軍綱吉は女性より男性を好んだようだが、女性ともセックスをして、子孫を残している。
ここまで男性同性愛が流行した裏側には、男女比の問題もある。1730年代の江戸には、女性100人に対して男性が170人もいたという。仕事を求めた地方の男性が江戸に集中したためである。その後、女性の移住も増えていくが、男女比が完全に1対1になるのは明治維新の前年にあたる1867年であった。
女性の増加によって、江戸の男娼文化は少しずつ廃れていったらしい。そして明治時代に流入した西洋文化の影響によって、男性同性愛は一気にタブーとなってしまうのである。