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全住民退去もダム計画が消滅…水没しなかった「悲哀の廃村」無人化から“35年目の世界”

2020/10/24

genre : ライフ, 社会, 歴史

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「部落を割る関電電発に絶対反対」

 冷えた足を拭って対岸に上陸し、廃屋の正面に回り込む。そこには、手書きの看板が掲げられていた。

〈部落を割る関電電発に絶対反対〉

 この看板が、集落の歴史を如実に表しているように感じた。おそらくは、ダム計画に反対し、最後までここで暮らしていた方のお宅だろう。

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集落の中を流れる永谷川
ダム計画反対の看板。〈部落を割る関電電発に絶対反対〉と赤字で書かれていた

 集落内には、もう一つ〈関電の電発に反対〉と書かれた看板があった。筆跡やペンキの色から察すると、作者は同じだろう。ダム計画に翻弄されたこの廃集落は、悲哀という言葉では表せないほど、独特の空気感に満ちている。

80年代に持ち上がった“2回目のダム計画”

 この集落を二分したダム計画というのは、当時日本で最大級となる揚水式水力発電を建設しようというものだった。揚水発電は、電力需要の少ない夜間に電力を使って水を高所に汲み揚げ、その水を昼間の電力需要ピーク時に放流して発電する。発電というよりかは、蓄電という意味合いが強い。この揚水発電を行うには、揚げた水を貯めておく上部池と、放流した水を貯めておく下部池の2つの池が必要になる。

 1960年代に持ち上がった計画では、由良川の上流、京都府の山林に上部池のダムを造り、三国峠を隔てた福井県名田庄村(ここに永谷集落も含まれる)に下部池のダムを建設する予定だった。しかし、山林は貴重な原生林であり、所有する京都大学や地元住民が猛反発したため、計画は一旦見送られた。

集落内にはもう一つダム計画反対の看板が残されていた
集落全体がダムに沈むはずだったが……

 1980年代になって再びダム計画が持ち上がると、地元も誘致を進める推進派と反対派の二派に分かれ、争いを繰り広げた。だが結局、名田庄村では永谷、出合、挙原の3集落が水没予定地となり、多くの世帯が転居を余儀なくされた。