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全住民退去もダム計画が消滅…水没しなかった「悲哀の廃村」無人化から“35年目の世界”

2020/10/24

genre : ライフ, 社会, 歴史

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なぜダム計画は白紙に戻されたのか?

 永谷集落では反対派の住民が最後まで残ったが、1985年、ついに無人となった。しかし、反対運動の広域的な盛り上がりや、町長の改選といった政治的な動きによって、やがてダム計画は再び白紙に戻された。その後、現在に至るまで、ダムを建設しようとする動きは全くみられない。

 出合、挙原の集落跡も訪問したが、ここ永谷集落が最も現存する家屋が多く、当時の痕跡を留めている。単純に廃集落という括りで全国をみても、これだけ完全に集落全てが廃屋となり、現存している場所は非常に少ない。廃墟マニアの目線では、日本屈指の廃集落といえるが、ダム計画に翻弄された過去が、重く心にのしかかる。

石垣の上に建つお寺

 廃墟というのは、光の当たる部分だけではなく、影の部分も我々に見せてくれる。むしろ影の部分があるからこそ、解体されず、保存もされず、廃墟になっていることが多いのだ。

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10年後の“再訪”で目にした光景

 11年前に訪れて以来、永谷集落をもう一度見たいとずっと思っていたが、アクセスが困難であることもあって、なかなか機会に恵まれなかった。しかし、前回の訪問からちょうど10年となる昨年末、再び永谷集落を訪れることができた。

 だが、木造家屋にとって、10年という歳月は残酷だった。幾つかの建物は倒壊し、瓦礫の山と化していた。お寺もペシャンコに潰れ、神社は傾いていた。川の向こうにある邸宅は残っていたが、掲げられていた〈部落を割る関電電発に絶対反対〉の看板は無くなっていた。

傾いてしまった神社(2019年撮影)
お寺はペシャンコに潰れてしまった(2019年撮影)
この10年で永谷集落の光景は一変した(2019年撮影)

 ダム計画に翻弄され続けた悲哀の廃集落。ここに人々が暮らし、そして去って行った経緯を示す痕跡は、着実に色褪せつつある。完全に失われるまでの時間は、そう長くはないだろう。

撮影=鹿取茂雄

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